「源倫子」藤原道長の正室、鷹司殿 繁栄支えた良妻賢母

 藤原道長の正室・源倫子(みなもとのともこ、964~1053年)は「鷹司(たかつかさ)殿」とも呼ばれ、道長との間に2男4女をもうけました。

 息子2人はいずれも関白に就いて政界の頂点に立ち、一条天皇の中宮となった長女・彰子をはじめ、娘4人は天皇か皇太子の正室。娘を通じて天皇の舅(しゅうと)や外祖父となった道長も、天皇の母「国母」としての威厳を備えていった彰子も、倫子の助力によって成功を収めたと言えます。

 90歳の長寿を全うし、『大鏡』でも賞賛された良妻賢母。倫子の生涯を見ていきます。

道長との結婚 将来性を買った母・穆子

 倫子の名の読みは「ともこ」とも「みちこ」とも推定され、確定していないので学問的には「りんし」と音読されます。

 父は左大臣・源雅信。公家源氏の一つ、宇多源氏の家で、倫子自身が宇多天皇の曽孫。母は藤原穆子(むつこ)。中納言・藤原朝忠の娘です。

 平安京東端の道長邸・土御門第は元々、源雅信の邸宅で、さらにたどると朝忠から穆子に伝えられた邸宅。倫子の通称「鷹司殿」はこの土御門第の西に隣接した邸宅にちなみます。倫子自身がそれなりの経済力を持っていたのです。

「后がね」父・源雅信の期待は?

 道長との結婚は永延元年(987)12月。倫子24歳、道長22歳のときです。

 源雅信は倫子を「后がね」、天皇の妻にしようと育ててきましたが、前年の寛和2年(986)に7歳で即位した一条天皇とは年齢差が16歳と大きく、どうにもなりません。

 道長は藤原兼家の五男。摂政・兼家の後継としては有力な同母兄が2人いました。『栄花物語』によると、穆子は道長の将来性を買い、倫子との結婚に積極的でしたが、雅信は一向に気が進みません。

雅信:「あきれたことだ。誰がくちばしの黄色い青二才をわが屋敷に入れるか」

穆子:「まあ、なぜ反対なさいますの。時々お見かけしますと、平凡でない方とお見受けします。どうか、私に任せてください」

 穆子はことさら盛大な結婚式を挙げさせます。これには兼家もかえって心配したほど。

兼家:「道長はまだ官位も低い。物笑いになりはせぬか」

 結果は穆子の見込み通り。道長は長徳元年(995)、権大納言から関白並みの権限のある内覧の職に就き、政権を掌握しました。

倫子を「女方」と呼んだ道長

 『栄花物語』では、「たやすく人に物など言わぬ人(浮気しない人)」と評される道長ですが、倫子のほかにもう一人、妻がいました。皇族出身貴族を父に持つ源明子です。結婚時期がはっきりしている倫子に比べ、明子との結婚時期は明確ではありませんが、倫子との結婚の翌年とみられています。

 倫子は正室で、明子は側室ですが、『大鏡』は2人の妻を同格に扱い、明子も6人の子を産んでいます。道長の側室、愛人はほかにも多くいますが、明子は別格。倫子の強力ライバルであり、『栄花物語』によると、倫子はつらい思いをしながら表立った動揺は示さなかったといいます。

 しかし、倫子が正室の座を脅かされることはなく、道長の日常生活の場はあくまで土御門第。倫子の妊娠を機に通い婚から同居するようになり、源雅信夫妻は一条邸に移ります。

 道長は日記『御堂関白記』で、倫子を「女方」(女房)と表記することが多く、明子は「近衛御門」などと書いています。「女房」は女官、貴人に仕える侍女のことですが、道長は現代と同じ「妻」の意味で使っているのが特徴。少し前の時代の史料にもみられ、道長が最初ではありませんが、自分の妻を「女房」と呼ぶのを広めたのは道長かも、と思わせるほど多用しています。また「女方」という書き方は道長独特のものです。

二男四女、夫婦仲は円満 44歳で末子出産

 道長と倫子の間の子は二男四女の6人。男子は道長長男・頼通(よりみち)、五男・教通(のりみち)。女子は長女・彰子(あきこ)、次女・妍子(きよこ)、四女・威子(たけこ)、六女・嬉子(よしこ)です。道長第1子の彰子と、倫子が44歳で産んだ末子・嬉子は19歳離れています。

※参考:源倫子の略系図
※参考:源倫子の略系図

息子は関白、娘は中宮、皇太子妃

 倫子の6人の子を簡単に紹介します。

 頼通は道長の後を継いで26歳の若さで摂政に就き、以後50年、摂政、関白として摂関政治の全盛期を築きます。その象徴が平等院鳳凰堂の造営です。

 教通は右大臣、左大臣を経て76歳でようやく関白に就任しました。兄・頼通に従い、協力して政権運営に参画しましたが、娘の入内をめぐって頼通とぎくしゃくした関係になり、また、互いに実子に関白職を譲ろうとして両家系の対立は深まります。

 彰子は道長との結婚翌年に生まれた第1子。一条天皇の中宮となり、後一条天皇、後朱雀天皇を産み、孫の後冷泉天皇、後三条天皇の時代も国母同様に君臨しました。

 妍子は三条天皇の中宮。やや派手好きな性格だったようです。34歳で崩御。

 威子は姉・彰子の子である後一条天皇の中宮。甥で9歳下の後一条天皇の元服を待って20歳で入内。2人の内親王を産みますが、38歳で崩御します。

 嬉子も彰子の子・敦良親王(後朱雀天皇)の正妃。親仁親王(後冷泉天皇)を出産した2日後、19歳の若さで他界します。

彰子出産に立ち会い、臍の緒を切る

 倫子が嬉子を出産したのは寛弘4年(1007)1月。既に一条天皇の中宮となっていた彰子から産着などが贈られる名誉に道長は喜びますが、道長が切望していたのは彰子の懐妊です。

 皇子誕生を祈願し、金峰山寺(奈良県吉野町)を参詣した道長の思いが通じ、寛弘5年(1008)9月11日、21歳の彰子は一条天皇の第2皇子、敦成親王(後一条天皇)を出産。『紫式部日記』や『栄花物語』によると、倫子は彰子の初産に立ち会い、皇子の臍(へそ)の緒を切る役目を果たします。

「運が良かった」道長の発言にカチン

 寛弘5年(1008)11月1日、敦成親王誕生五十日の祝いは、土御門第に貴族が集まり、結構などんちゃん騒ぎでした。『紫式部日記』によると、藤原道長は上機嫌で自慢を始めます。酔った勢いの冗談です。

道長:「私は中宮(彰子)のてて(「父」の幼児語)としてたいしたものだし、私の娘として中宮もなかなかのものだ。母(倫子)も運が良かったと笑っている。いい夫を持ったと」

 倫子は「聞いていられない」と自室へ。道長は大慌てで倫子を追いかけますが、女房たちは笑っています。倫子と道長の力関係が見える場面。道長の成功は倫子の功績が大きく、運が良いのは道長の方だということを女房たちも分かっていたのです。

 とはいえ、夫婦仲は円満。倫子は小柄でいつまでも若々しかったといい、『御堂関白記』によると、夫婦同伴で外出していることが分かります。ほかの貴族の日記にはあまり見られない行動です。夫婦同伴で参内していることもあります。参内して何をしたかは不明ですが、彰子を後見、補佐していたとみられます。

一家三后の母、道長以上の位階 90歳の長寿

 倫子の位階はどんどん上がります。

 長徳4年(998)、従三位となり、長保2年(1000)、彰子が中宮として立后する際は従二位に。寛弘3年(1006)、一条天皇が東三条邸、一条邸に訪問(行幸)した際は正二位となります。

従一位、そして准三宮の特別待遇

 寛弘5年(1008)、敦成親王誕生で、従一位まで上がります。道長はこのとき、正二位で、昇格を辞退したため、代わりに倫子が従一位に。夫・道長よりも高い位階となりました。

 長和5年(1016)には、道長とともに准三宮に。太皇太后、皇太后、皇后の三后に準じる称号で、破格の待遇を受けます。

 寛仁2年(1018)、後一条天皇が元服し、威子が中宮となり、倫子の娘としては彰子、妍子に続く3人目の中宮。このとき彰子は太皇太后となり、三条天皇中宮だった妍子は皇太后に。太皇太后、皇太后、中宮(皇后)の三后を倫子の娘が独占する「一家三后」です。

「三后」が臨席した「六十の賀」

 倫子は治安元年(1021)、58歳で出家。

 治安3年(1023)10月13日、土御門第で倫子の長寿を祝う「六十の賀」が行われ、娘である3人の后や、妍子が産んだ三条天皇の皇女・禎子内親王が臨席しています。

 「七十の賀」は長元6年(1033)11月28日、頼通の豪邸・高陽院(かやのいん)で行われ、頼通のほか、彰子や威子も訪れています。

 万寿2年(1025)8月に道長六女・嬉子、万寿4年(1027)9月に次女・妍子に先立たれ、12月には夫・道長を見送りました。四女・威子も長元9年(1036)に他界。長女・彰子を除く3人の娘に先立たれました。

 天喜元年(1053)、6月1日死去。90歳の長寿を全うしました。

おわりに

 藤原道長は嫡男・頼通に対し、「男は妻(め)がらなり」と言っています。「男の価値は妻次第」だと分かっていたのです。

 中宮となった彰子の女房には、幼少期の彰子とのエピソードがある赤染衛門や大納言の君ら倫子ゆかりの女性が数多く仕えています。経済的にも人材供給の面でも倫子の支えた力は大きく、倫子もそれを十分自覚し、誇りに思っていたことは、『紫式部日記』の敦成親王誕生五十日の祝いのエピソードでもうかがえます。


【主な参考文献】
  • 倉本一宏『公家源氏』(中央公論新社、2019年)中公新書
  • 山中裕『藤原道長』(吉川弘文館、2008年)
  • 大津透、池田尚隆編『藤原道長事典』(思文閣出版、2017年)
  • 保坂弘司『大鏡 全現代語訳』(講談社、1981年)講談社学術文庫
  • 山中裕、秋山虔、池田尚隆、福長進校注・訳『栄花物語』(小学館、1995~1998年)
  • 紫式部、山本淳子訳注『紫式部日記 現代語訳付き』(KADOKAWA、2010年)角川ソフィア文庫

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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