【佐賀県】唐津城の歴史 玄界灘を望む絶景の城

 玄界灘を望む半島の突端に唐津城(からつじょう)はあります。目の前には小さな島々が浮かび、虹の松原が東へ延びる様子は絶景そのもの。かつては西に妙見松原があったといいますから、それは見事な風景だったことでしょう。

 また海から見れば、天守が頭、そして東西の松原を双翼と見立てれば、あたかも鶴が羽を広げた姿を彷彿とさせます。「舞鶴城」と名が付いたのも納得がいくところですね。

 観光地としても有名な唐津城ですが、非常に興味深くて謎が多い城です。なぜ海に突き出すように築城されたのか?いつ城が築かれたのか?その歴史をひも解きつつ、ご紹介していきましょう。

寺沢広高によって築城される

 唐津城の東側を流れる玉島川は、かつて神功皇后が朝鮮出陣を前に、水面を鏡に見立てて髪を結い直したという伝説が残る場所です。また「唐津」という地名は、中国大陸・朝鮮半島へ渡る湊があったことに由来するとか。

唐津城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 さて、唐津城が完成したのは慶長13年(1608)のことで、寺沢広高によって築かれました。そもそも広高は、豊臣秀吉のもとで頭角を現した人物で、文禄・慶長の役で大きな戦功を挙げています。

 ちなみに唐津は、岸嶽城主・波多親が治めていたのですが、秀吉の怒りに触れて所領を没収され、新たに広高が6万石の大名として入ってきたのです。

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで戦功を認められた広高は、肥後天草を加増されて12万3千石の大名となりました。そこで居城だった岸嶽城を捨て、新たな城を築くことを決意します。

 広高が目を付けたのは満島山と呼ばれる半島で、虹の松原から発達した砂州によって生まれた陸繋島でした。

 おそらく海上交通の利便性がよく、水軍の基地として期待したのでしょう。また荒々しい玄海灘とは違い、穏やかな唐津湾は、船が停泊するにはうってつけでした。

 もちろん三方向を海に囲まれた要害ですから、守るのに適した地形だったことが大きかったのでしょう。いわば海側の防御を気にしなくても良い、後ろ堅固の城だったわけですね。

 寺沢氏時代の唐津城について、あまり詳しいことはわかっていませんが、まず松浦川を半島の東へ付け替え、それまでの河口を堰き止めて水堀としています。

 また、満島山を本丸として、西へ連続するように二の丸・三の丸を配置させ、連郭式城郭の形態を取りました。

鏡山公園(唐津城から南東7~8km程に位置)からみた唐津城
鏡山公園(唐津城から南東7~8km程に位置)からみた唐津城

寺沢氏が築く前から城はあったのか?

 近年の発掘調査によって、唐津城築城以前に城があったのでは?と指摘されています。

 平成20年(2008)、本丸石垣の修復に伴う調査の結果、天守台周辺で埋もれた古い石垣が見つかりました。江戸時代の絵図や史料では確認できず、おそらく唐津城最古の石垣だと位置づけられます。

 ところが注目に値するのは、金箔瓦が出土したことです。金箔瓦といえば豊臣家の権威を示す遺物であるため、一門や豊臣系大名の一部のみが使用を許されていました。ただし、広高が満島山に築城するのは江戸時代に入ってからです。徳川氏を憚る意味でも、金箔瓦を用いる可能性は極端に低いでしょう。

 それでは、なぜ金箔瓦が存在するのでしょうか? 実は唐津城から北西方向に、朝鮮出兵の本営となった名護屋城があり、その後衛もしくは後詰の役割を担った軍事施設が満島山にあったのでは?と指摘されています。また、唐津城二の丸一帯で行われた発掘調査でも、同様の金箔瓦が出土しました。つまり満島山だけでなく、山裾部分も含めた城郭の存在がクローズアップされているのです。

 ただし、寺沢氏が城を築く際、名護屋城や岸嶽城から建材や石材を用いたという記録があることから、金箔瓦も含めて移築した可能性もあるでしょう。唐津城が築かれた時期は、全国で空前の築城ラッシュが起こっていました。一から資材を調達するより、廃城から運んだ方がコスト的に安いため、諸大名はこぞって移築に踏み切っていたのです。

 唐津城のケースでも築城コストを抑えるため、あえて金箔瓦を運んだのかも知れません。しかし新たな天下人となった徳川氏の手前、そこまで思い切ったことができたのでしょうか? やはり謎は尽きないところですね。

唐津城の構造と城下町

 ここから唐津城や城下町の構造を見ていきましょう。まず満島山には本丸が置かれ、南西隅には天守台が築かれました。ただし天守そのものは存在しなかったようで、寛永4年(1627)の隠密探索書にも「天守之台高さ八間斗、南西の隅尓有、天守なし」と記録されており、江戸時代を通じて建てられることはありませんでした。

 天守がなかった理由について明らかではありませんが、徳川氏を憚ったこと、あるいは資金面で難があったことなどが指摘されています。

『日本古城絵図』に描かれた唐津城(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『日本古城絵図』に描かれた唐津城(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 本丸の山裾南側には下曲輪があり、米蔵や厩などが設けられていました。この曲輪には舟入門があり、領内から集められた年貢米はここで荷揚げされ、米蔵に保管されたようです。

 いっぽう、本丸の山裾西側には二の丸御住居というエリアがあり、藩主御殿が存在していました。江戸時代を通じて藩庁あるいは藩の中枢として機能したといいます。

 その西隣には二の丸があって、在番屋敷や厩、作業場などが配置されていました。比較的公共性の高い施設が集まっていたと考えられます。そこから西に位置する三の丸には、家老や重臣の屋敷が立ち並び、住吉三神を祀る唐津神社が再建されました。

 天守こそ築かれなかったものの、本丸には11、二の丸には6、三の丸には9の櫓が存在したようです。平成4年(1992)には三の丸辰巳櫓が復元され、往時の姿を偲ばせてくれます。

 さて、三の丸の南側に広がるのが城下町を構成する外曲輪です。町田川を挟んで内側を内町、外側を外町とし、商人や職人たちを居住させることで、活発な商業を振興させました。

 『松浦拾風土記』によれば「町数、壱万石壱町にして拾弐町と極る」とあり、唐津藩12万石の知行のうち1万石ごとに刀町・米屋町・呉服町・魚町など12町が置かれたといいます。

 また外町には水主町・新堀・材木町といった地区があり、藩政初期には水軍基地がありました。もちろん船を操る水主たちが居住したエリアで、地子を免除されるなど特別な待遇を与えられたようです。

 さすがに平和な時代になると水軍としての機能は失われますが、多くの舟が出入りする港湾機能を持つようになりました。

 米や野菜、あるいは石炭といった生活物資が荷揚げされ、唐津藩の経済・交通の中心地として栄えたのです。

 こうした商業活動を振興するいっぽうで、広高は城下町を守る工夫をおこなっています。それが虹の松原をはじめとする防風林の設置でした。なんと100万本に及ぶ黒松が海岸沿いに植えられ、玄海灘から吹き付ける強風から町を守ったといいます。

 現在も虹の松原は防風の役目を担い、風光明媚な観光地として地域振興に一役買っているのです。

寺沢氏の改易後、譜代大名が相次いで藩主となる

 寛永14年(1637)、2代藩主・寺沢堅高の時に島原・天草一揆(いわゆる島原の乱)が勃発。一揆は鎮圧されたものの、寺沢氏が苛政を敷いたことが原因と断定され、堅高は改易のうえ蟄居処分となります。ただし、富岡城を守った功績によって、天草を除く領地を再度与えられました。

 ところが正保4年(1647)、堅高が自害したことで、寺沢氏は断絶してしまいます。その後、唐津は一時的に幕府の天領となり、慶安2年(1649)になると播磨明石から大久保忠職が入封しました。そして大久保氏以降、松平・土井・水野・小笠原といった譜代大名が相次いで藩主となっています。

 とはいえ、小笠原氏の時代は5万石程度の大名に過ぎず、藩の借財は重なっていくばかり。ついに参勤や長崎警固といった公務にすら差し支えるようになりました。そんな状況では唐津城の維持管理すらままならず、ほとんどの櫓は荒廃して使い物にならなくなったといいます。

 やがて明治維新を迎えると廃城となり、城の建造物は明治9年(1876)までにほとんどが解体されました。翌年、本丸が舞鶴公園として整備され、一般市民に開放されています。ただし、二の丸や三の丸は都市化していき、現在では痕跡がほとんど確認できません。

 戦後になると、唐津城復興の気運が高まり、昭和41年(1966)には五層五階の模擬天守閣が完成。さらに石垣や堀・櫓などが復元されるなど、現在では唐津を代表する景観となっています。

おわりに

 もともと唐津城に天守はなかったのですが、戦後になって模擬天守閣が築造されました。その歴史的な是非は置いておき、現在では町並みと融合しつつ、唐津のシンボル的存在となっています。

 ただし築造されてから60年近く経過するため、もし天守閣が老朽化して取り壊された時、果たして再建されるのでしょうか?あるいは史実に従えば、再建を断念する可能性も否定できません。

 全国各地には唐津城と同じような天守閣がたくさんあります。今こそ後世へ「城」をどのように伝えていくのか?考える必要があるような気がします。

補足:唐津城の略年表

出来事
天正・文禄年間名護屋城築城。満島山に後衛の軍事施設が築かれた可能性あり。
文禄4年
(1595)
波多親の改易に伴い、寺沢広高が唐津へ入封する。
慶長7年
(1602)
唐津城の築城が始まる。
慶長13年
(1613)
唐津城が完成。 
寛永14年
(1637)
島原・天草一揆が勃発。
正保4年
(1647)
寺沢堅高の自害によって寺沢氏が断絶。一時的に天領となる。
慶安2年
(1649)
播磨明石より大久保忠職が入封。以後、幕末まで譜代大名が入れ替わる。
明和8年
(1771)
虹の松原一揆が起こり、農民の集団が唐津城へ迫る。
明治4年
(1871)
唐津城が廃城となる。
明治10年
(1877)
唐津城本丸跡に舞鶴公園が開設される。
昭和41年
(1966)
天守台に模擬天守閣が築造される。
平成元年
(1989)
三の丸跡の肥後堀が整備される。
平成4年
(1992)
二の丸跡に、時の太鼓が整備される。
平成5年
(1993)
三の丸跡に辰巳櫓が建設される。
平成20年
(2017)
続日本100名城に選定される。


【主な参考文献】
  • 南条範夫・奈良本辰也「日本の名城・古城事典」(ティビーエス・ブリタニカ 1989年)
  • 岡寺良、渕ノ上隆介ほか「九州の名城を歩く 佐賀・長崎編」(吉川弘文館 2023年)
  • 小林祐一「西日本 名城紀行」(メイツ出版 2019年)
  • 相賀徹夫「城郭と城下町9 北九州」(小学館 1984年)
  • 唐津市都市整備部都市計画課「よみがえる唐津城」

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。