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【史跡散策】大阪城…豊臣 vs 徳川。戦国ラストの戦いの舞台となった城を追う
- 2023/10/03
大阪市の上町台地の北端に位置する大阪城。もともとは浄土真宗の石山本願寺があり、織田信長によって移転させられた。本能寺の変(1582)の後、羽柴秀吉によって大阪城が建てられたが、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で炎上、豊臣家は滅び、徳川幕府によって建て替えられた。
現在のお城は昭和のはじめに建てられたコンクリート造りだ。大阪城の歴史の中で日本国の中心となったのが秀吉時代。大坂夏の陣では、徳川軍に囲まれ、豊臣秀頼と母の淀殿は追い詰められた。
城の西側、大手門から入ってみると、巨大な石が目につく。現存する大手門や櫓などはすべて徳川時代のもので、豊臣時代のものは残っていないが、おそらくこれに近いイメージだっただろうと想像することができる。
大手門の内側には、表御殿という建物が並び、秀吉が対面所で各地の大名を出迎えたという。
大阪城には秀吉の母・大政所(おおまんどころ)、正室・北政所のねね(おね)、などの家族が住んでいたから、秀吉の戦略で徳川家康に嫁いだ妹の朝日姫もいたと考えられる。
浅井三姉妹も大阪城に住んでいたから、秀吉の側室になった長女の茶々、京極へ嫁いだ次女の初も、そして徳川へ行くことになる江もここで寝起きしていた。
桜門は天守の少し南に位置するが、そのさらに南には、秀吉が祀られる豊国神社がある。威厳ある秀吉の像も。
そして桜門を入ると、石垣の上に天守が見えてくる。この石も大きすぎる。このあたりの位置には、豊臣時代にも門のひとつやふたつはあったのではないか。徳川との戦いでは木村重成や真田幸村も頻繁に出入りしたのかも、と考えてしまう。
秀吉時代の天守は現在の位置とは少しずれているというが、大阪城公園の本丸であるこの付近には天守に付随する建物が並んでいただろう。
秀吉の家族たちは天守の近くの奥御殿に暮らしていたという。秀頼に嫁いだ家康の孫、千姫も7歳から19歳まで大阪城で結婚生活を送った。
天守近くの石垣の上から梅田方面を眺めると、高層ビルや再開発エリアが見渡せる。400年前は何もなかったのかなと想像する。
反対側の東側には大阪ビジネスパークが見える。京橋方面だ。このあたりも400年前は川が流れていただけだろう。
天守の北側、大阪城拝観ルートから道を外れた場所には、ぽつんと石碑がある。最後に逃げ込んだ山里郭で自刃し、火を放った最期の地である。
特に淀殿は、幼い頃から小谷、北の庄と落城を経験し、最後も落城で終わった。近くの太融寺に遺骨が移された淀殿は、静かに眠っている。
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