「安宅冬康」兄長慶に殺害される!穏やかで和歌を愛した仁慈の武将

安宅冬康(あたぎふゆやす)は戦国時代に初めて天下統一を遂げた三好長慶の弟で、ほかの兄弟とともに長慶を支えた人物として知られます。

兄弟の度重なる死や嫡男・義興の死で心身を病んだ長慶によって誅殺されてしまいますが、殺害の理由ははっきりしません。一説には松永久秀の讒言によるものとされますが、これも冬康が心優しく穏やかな人柄で人々に信頼されたからでしょうか。

淡路の水軍衆・安宅氏の養子に

冬康は阿波国の武将・三好元長の三男として生まれました。生年はわかっていません。幼名を千々世といい、仮名は神太郎といいました。のちに鴨冬、冬康と名乗ります。

父の元長は主君・細川晴元と対立し、敗れて享禄5(1532)年に自害に追い込まれました。三好家を継いだのはまだ10歳(満年齢)の長兄・長慶です。長慶は父の死後すぐに晴元と一向一揆との和睦を斡旋して晴元を助け、一時敵対することはあったものの晴元の家臣となりました。

幼い冬康は、長慶によって安宅氏の養子に立てられました。安宅氏は淡路水軍の名家で、炬口(たけのくち)城主です。冬康が安宅氏の家督を継承して淡路一国を支配することで、長慶は淡路と、菅氏・梶原氏といった淡路水軍の力を手に入れたのでした。


三好兄弟はほかに3人いますが、長慶のすぐ下の弟である実休はそのまま三好氏として阿波国にあり、阿波守護細川氏に仕えて阿波国内の三好勢の勢力を保持します。

下の弟の十河一存は讃岐十河城主の養子となって十河氏を相続し、野口冬長は淡路の野口氏の家督を相続することでそれぞれ各地から兄・長慶を支える体制を築きました。

鈴虫を贈って兄・長慶を諫める

冬康は人に優しく思いやりのある仁慈の人であったとされ、武将としてよりも歌を愛する文化人として知られていますが、このような逸話が残っています。

兄の長慶が勢力をのばしていたころ、人を軽視して将軍を近江に追いやったり殺戮を繰り返したりして驕っているのを見かねた冬康は、長慶に鈴虫を贈りました。「夏の鈴虫でも大切に飼えば冬まで生きるのだ、ましてそれが人ならなおさらだ。どうして人の命を粗末にするのか。」
そう言って鈴虫を通して生命の尊さを伝え、長慶を諫めたのです。

歌人だからか、諫め方まで風雅ですね。この弟の言葉に長慶がどのように反応したかはわかりませんが、とにかくいつでも穏やかで優しい冬康の性格は人望を集めたようです。

歌人としての冬康

茶の湯や連歌など、何かと芸道に通じた人物が多いのが三好一族です。長慶の連歌を筆頭に、実休や政長は茶の湯、そして冬康は長慶と同じく歌を好みました。

冬康は「能書歌人」「隠れなき歌人」「歌道の達者」と呼ばれ、陣中でも歌書を手放さないほど和歌を愛したといいます。冬康の歌集には『安宅冬康句集』ほか、自身の名を冠した歌集が複数残っています。

冬康の和歌で特に有名なのが、

「いにしへをしるせる文のあともうしさらずばくだる世ともしらじを」


という和歌で、温和で戦乱を嫌う人柄が見える歌です。

冬康の歌について、細川幽斎(藤孝)は「あたぎ冬康が連歌は、ぐつとあちらへつきとほすやうなる連歌なり」と評したと『耳底記』などに記されています。

相次ぐ一族の死で病む長慶

三好長慶にとって、畿内を中心に最大勢力を誇った永禄年間の初めごろは最盛期であったといっていいでしょう。しかし、永禄4(1561)年から衰退していくことになります。その理由のひとつは、兄弟の死であったと思われます。

十河一存の病死と三好実休の戦死

永禄4(1561)年、「鬼十河」と呼ばれた猛将で知られる、弟の十河一存が病死しました。一存は長慶の重臣である松永久秀と不仲であったといわれ、そのため久秀によって暗殺されたとの説がありますが、憶測の域を出ません。

次いで、翌年の永禄5(1562)年に起こった畠山高政らとの戦い(久米田の戦い)にて、長慶のすぐ下の弟・三好実休が戦死しました。

実休が亡くなったとき、長慶は飯盛山城で連歌会を開いており、その場には同じく連歌をよくした冬康もいました。長慶は実休の死を知らされても連歌会を中断せず、百韻を終えてはじめて参加者を帰らせたといいます。

長慶嫡男・義興の死

ふたりの兄弟を亡くしたショックも冷めやらぬ間に、永禄6(1563)年8月、長慶の嫡男である義興が22歳の若さで亡くなりました。長慶にとって義興は唯一の子で、その才覚は父長慶をしのぐほどであったといわれ、将来を嘱望された後継者でした。

後継者を不在のままにしておくわけにはいかず、長慶は十河一存の子を猶子として義継と名乗らせて後継者に据えました。義継が選ばれたのは彼の母が元関白・九条稙通の娘で、血筋が良かったためでしょう。

兄弟と我が子を相次いで亡くし、さらに同年中に長く対立した細川晴元、そして三好政権下で協力し合った管領・細川氏綱が亡くなります。身近な存在を次々に喪ったことで、長慶は心身を病むようになりました。

長慶に誅殺される

長慶は後継者に義継を立てましたが、三好政権を支えた長慶の兄弟を失った家中では人望厚い冬康の存在が注目を集めるようになります。

そんな中、永禄7(1564)年5月9日、長慶は冬康を飯盛山城に呼び出し、誅殺してしまいます。長慶は唯一残った信頼できる弟を自らの手で死なせてしまったのです。

山科言継の『言継卿記』によれば、冬康に「逆心悪行」の噂があったのだとか。また『細川両家記』などによれば松永久秀が長慶に「逆心の聞えあり」と讒言して冬康を死に追いやったということです。

しかし十河一存の死にしても義興の死にしても暗殺の犯人と噂されてしまう久秀のこと。人々はどうもそのように捉えて噂したようですが、久秀が直接関与したという記録はありません。

長慶自身が後継に指名した義継とは別に、人望を集めていた冬康自身が義継への継承に異を唱えたのかもしれません。長慶がそれを危惧して早々に冬康を排除したということも考えられます。

また、長慶が病により正常な判断ができず殺してしまったという説もあります。晩年の長慶がうつ病であったならば、被害妄想により人望厚い冬康が家臣たちと手を組んで自分を排除しようとしている、殺そうとしていると考えたかもしれません。

冬康を殺したあと、わずか2か月後に長慶自身も病で亡くなってしまいます。

もし長慶が冬康に家督を譲っていれば、もしくは義継の後見を頼んでいれば……。ありもしないもしもを考えても仕方ありませんが、そうであったなら長慶亡き後の三好政権があれほど早く崩壊することはなかったのではないかと思えてなりません。




【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 今谷明・天野忠幸 監修『三好長慶 室町幕府に代わる中央政権を目指した織田信長の先駆者』(宮帯出版社、2013年)
  • 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)
  • 今谷明『戦国三好一族 天下に号令した戦国大名』(洋泉社、2007年)
  • 長江正一 著 日本歴史学会 編集『三好長慶』(吉川弘文館、1968年 ※新装版1999年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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