「三好長慶」戦国最初の天下人!信長よりも先に天下を手にした武将

皆さんは「天下人」というと誰を想像するでしょうか。やはり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三英傑だと思います。 戦国時代というとどうもこの三英傑の時代を中心に考えがちで、それ以前の時代はおぼろげ……という方も多いかもしれませんね。

近年、信長よりも前に天下をとったと考えられているのが、三好長慶(ながよし/ちょうけい)です。信長より12年早く生まれ、信長が天下人となる20年も前に戦国初の天下人になっていた、といわれる人物です。

幼少期から苦難の連続であった三好長慶の人生とは、どのようなものだったのでしょうか。

父の仇・細川晴元に仕えた少年期

三好長慶の出自

三好長慶は、四国・阿波国(現在の徳島県)の武将・三好元長の嫡男として、大永2年(1522)に誕生しました。

母の名や出身地は伝わっていませんが、聚光院の位牌に「慶春院殿南岸智英大姉」とあります。生年は没年から逆算したもので、生まれた日は『三好家譜』によると、2月13日とされますが、誤りも多い書物のため定かではありません。

幼名は千熊丸(仙熊とも)といい、元服後は伊賀守、通称を孫次郎といいました。「長慶」の名で知られますが、当初は「利長」と名乗り、次いで「範長」と改名、さらには「長慶」と名を改めています。

長慶は若くして天下人となるワケですが、「長慶の母が懐妊したとき、館の南にある吉野川の瀬に立って、天下の英雄が生まれるよう大願をかけた」、という伝承があります。後付けの創作のような印象がありますが、生まれた長慶は幼いころから天下人の片鱗を見せます。

父・元長と晴元の対立

長慶の父・元長は細川晴元に仕えていました。室町幕府の三管領の一角である細川家ですが、当時は細川宗家である京兆家の家督相続をめぐって、細川澄元・晴元父子と細川高国が対立していました(永正の錯乱/両細川の乱)。

かつての管領・細川政元の3人の養子による後継者争いで、政権は高国が掌握していた頃です。

細川政元の3人の養子による後継者争いの図
※参考:細川政元の3人の養子による後継者争い。()は出来事の年を示す。

そんな後継者争いの最中、澄元は無念にも病没、打倒高国は子の晴元に受け継がれました。そして晴元に仕えていた元長ですが、長年の政敵であった高国を京から追い出し、享禄4年(1531)に滅ぼすという、これ以上ないほどの功績をあげています。

しかしその後、京都で勢力を増す元長に対し、主君の晴元はこれを不安視するようになります。そして晴元の重臣・木沢長政、同じ三好一族である三好政長(宗三)との対立も相まって、享禄5年(1532)に一向一揆で討たれてしまうのです。

元長は堺の顕本寺で自刃。切腹し、はらわたを掴み出して天井へ投げつけた、といわれています。このとき、母とともに阿波へ帰された長慶はまだ10歳。元服前に家督を相続することになりました。

わずか12歳にして晴元と一向一揆の和睦を斡旋

晴元は、元長を討つために本願寺光教に頼んで一向一揆を起こさせたわけですが、この後の動きがよくありませんでした。

晴元にしてみれば元長を討てば一揆は用無しですが、その後一揆はおさまることなく、さらに勢いを増して享禄・天文の乱へと発展していきます。これを鎮圧させるために法華宗の衆徒の力を借りますが、本願寺勢力と対立する法華宗を動員したことで神経を逆なで。火に油を注ぐ結果になりました。

これを鎮めたのが、当時まだ12歳の少年だった長慶です。『本福寺明宗跡書』に、天文2年(1533)6月20日に「三好仙熊(長慶)に扱をまかせて、敵方悉く敗軍す」とあり、長慶の仲介によって和睦がなったことが記録されています。

おそらくは若年の当主である長慶の名を冠して誰かが代理で働いたのでしょうが、父の死からわずか1年足らずで、若い長慶を中心としてこれだけの仕事をやってのけるほどには三好家中はまとまっていたことがわかります。

細川晴元と対立、将軍を追い出して天下人へ

この頃に長慶は元服。天文3年(1534)には晴元と戦っていますが、その後は木沢長政の仲介によって晴元に仕えることになります。一度は晴元に敵意を表したわけですが、「まだ若いから」という理由で許されたようです。役得……?

こうして晴元のもとで働き、一揆を鎮圧するなど、次々と目覚ましい活躍を見せます。石山本願寺には一目置かれ、15歳の若さで祝宴を開いて晴元を歓待するほどの堂々ぶり。こうして長慶は晴元家臣として着々と力をつけていくのですが……。

晴元・三好政長らとの対立

晴元や政長に対しては、もともと「父の仇だ」という思いがくすぶっていたはずです。時々離反しながらも、それでも晴元家臣として活躍し続けました。

天文8年(1539)、長慶は兵を伴って入京し、晴元を酒宴に招きました。このとき、幕府料所の河内十七箇所(現在の守口市)の代官職を自分に与えてくれ、と要求します。実はこの代官職はもともと父の元長が任命されていたのですが、彼の死後は同族で仇でもある三好政長が任命されていたのです。

が、その要求は聞き入れなかったため、長慶は直接室町幕府に訴えました。幕府は長慶の要求が正当であるとは認めるのですが、交渉はうまくいきません。納得のいかない長慶は兵をあげて晴元を討とうとするも、結局は六角定頼の調停による和睦で事は収まっています。その後、長慶は越水城主となり、阿波から摂津へ拠点を移して活動することになります。

翌天文9年(1540)には波多野秀忠の娘と結婚し、天文11年(1542)に嫡男義興が誕生しています。

江口の戦いで晴元・政長に勝利

その後も我慢強く仇の配下として活動しますが、やがて転機が訪れます。天文16年(1547)には、晴元と敵対していた遊佐長教(ながのり)を破って、六角定頼の仲介で和睦した長慶は、長教の娘を継室として迎えます。

つまり、波多野秀忠の娘とは離縁し、長教との同盟のために政略結婚をしたのです。このころから「長慶」と名乗るようになり、ついに政敵・三好政長討伐の決意を固めました。政長と対立するということは、政長をかばう晴元とも対立することになります。

長慶は越水城で議論を重ねました。その内容について、『細川両家記』は、「もし晴元が政長を見放すことなくかばい続けるようなら、御屋形様といえども敵と見なす」と決定した、と記しています。

天文17年(1548)8月12日、長慶は政長親子を討伐するように晴元の側近に訴えますが、聞き入れられなかったため、ついに晴元から離反。翌天文18年(1549)6月に江口の戦いで政長を討ちます。政長の支援をしていた晴元は、13代将軍・足利義輝とともに近江へ逃れました。

7月9日、長慶は細川京兆家の当主にと担いだ細川氏綱を伴って入洛。天文19(1550)3月には摂津を平定。将軍も晴元もいない都。三好政権の始まりです。このときの長慶は29歳でした。


三好長慶政権

一応は主君として氏綱を据えましたが、それは形式上のことで、氏綱を通すことなく所領安堵や判物の発給を行うようになります(氏綱は傀儡として扱われたとされますが、長慶は儀礼等では氏綱を尊重していたようです)。

こういった行政面では、家臣の松永久秀らが大いに活躍しました。

将軍・義輝との関係

近江に追いやった晴元、義輝とは、それ以降もいざこざが続きます。

天文20年(1551)には将軍の家臣による長慶暗殺未遂事件が起こります。翌年に義輝の上洛、そして長慶が晴元の子・昭元を取り立てることを条件に和睦がなります。このとき晴元は出家して家督を氏綱に譲ることも条件のひとつでした。

長慶は御供衆に就任し、管領細川家の家臣から、将軍の直臣へと出世。それぞれがおさまるところにおさまりながらも、長慶が実権を握るという状況は変わりません。義輝、晴元の不満は相変わらずで、天文22年(1553)には再び挙兵して長慶と争い……敗れた義輝は再び近江へ逃れ、朽木谷で5年耐え忍ぶことになります。結局、義輝が再び京へ戻るのは、永禄元年(1558)でした。

長慶の最盛期

その後、長慶は永禄3年(1560)に御相伴衆に加わり、さらに修理大夫に任ぜられます。それと同時に、嫡男の義興は御供衆、そして筑前守へ。長慶はこの年、家督を義興に譲り、自らは飯盛山城へ移ります。

三好長慶の要所・合戦マップ。青マーカーは長慶の各居城。色塗エリアは畿内5か国。

永禄年間はまさに三好長慶の最盛期で、勢力は山城・摂津・河内・和泉・大和の畿内5か国に加え、丹波・淡路・阿波・讃岐・播磨と伊予の一部、さらには丹後や若狭の地方にも広がっていました。

イエズス会から見た三好長慶

この全盛期に、長慶はイエズス会の畿内でのキリスト教布教を許可するなど、異教への理解を示しています。

のちに信長がイエズス会を庇護したことは広く知られていますが、それよりも前に、長慶が寛容な心でキリスト教布教を許可し、彼らを庇護していたのでした。

イエズス会のフェルナンデスによるイエズス会員宛ての報告には、外国人の目線での興味深い評価が見られます。フェルナンデスは、都の政治は3人に依存しているとします。

  • 1に将軍である公方様(イエズス会は日本全国の王と呼ぶ)
  • 2にその家臣である三好長慶
  • 3に三好家臣の松永久秀

1の将軍には「王」としての名声以外にはなにもなく、2の長慶が家臣でありながら権力を持っている。そして3の松永久秀は、長慶に臣従して国を治め、法を司っている。

当時実権を握っていたのは長慶であり、その家臣である久秀が手足となって国を動かしていた、と見たようです。イエズス会から見ても、長慶が天下人と言っていい立場にあったことがうかがえます。


文化人としての長慶

さて、長慶は政治面で才能を発揮した一方、優れた文化人でもありました。

三好一族でも、弟の実休や政敵の三好政長(宗三)らが茶の湯を好んだ一方、長慶は連歌や和歌を好みました。特に晩年は連歌に傾倒しました。戦国時代は、細川藤孝(幽斎)など連歌を好んだ武将は多いですが、長慶はその第一人者といってもいい人物です。

禁裏で行われた歌会にも参加し、後奈良天皇の宸筆(天皇真跡の意)『古今和歌集』を下賜され、山科言継に『玉葉和歌集』の書写を依頼するなど、和歌に興味を示しました。長慶自身、自ら『後撰和歌集』の書写も行っています。

僧で茶人の大林宗套(だいりんそうとう)は、長慶の三回忌に「心に万葉・古今の歌道を諳(そらん)じ、風月を吟弄(ぎんろう)すること三千」と言って賞賛したといわれます。細川藤孝ものちに、「修理大夫(長慶のこと)連歌は、いかにも案じてしたる連歌なりしなり」(『日本歌学大系』所収の『耳底記』より)と、長慶の連歌はよく推敲された句であると評価したことが伝わっています。

相次ぐ身内の死

晩年の永禄年間は三好長慶の最盛期でしたが、不幸も続きました。身内が次々と亡くなったのです。


十河一存・三好実休の死

最初に、>永禄4年(1561)4月23日、弟の十河一存(そごうかずまさ)が亡くなりました。松永久秀が暗殺したという説もありますが、死因は病死であったといわれます。続くように、翌年の3月5日、長慶のすぐ下の弟・実休が久米田の戦いで敗死します。

嫡男・義興の死

何よりもつらかったのは、嫡男・義興の死でしょう。永禄6年(1563)8月25日、義興は22歳の若さで亡くなります。これも松永久秀の暗殺という説がありますが、後世の創作によるもので、実際は病死であったといわれます。

松永久秀の讒言で弟・安宅冬康を誅殺?

毎年のように肉親を失った長慶の精神は不安定になり、翌永禄7年(1564)5月9日、長慶は唯一残っていた弟の安宅冬康(あたぎふゆやす)を飯盛山城へ呼び出し、誅殺しました。この事件は、松永久秀の讒言によって起こったという説がよく知られていますが、長慶が自分の考えで冬康を殺した、という説もあります。

嫡男の義興亡き後は、弟の十河一存の子・義継を養子に迎えて後継者としましたが、家中の目は優秀な冬康に向いており、これに危機感を持ったためともいわれます。

冬康は、人を軽視する兄・長慶に鈴虫を贈り、「夏虫である鈴虫でも大切に飼えば冬まで生きられるのです。まして人ならなおさらです」と諫めた逸話が残っており、かなり温和で人徳のある人物であったようです。

長慶の最期

長慶は、弟の冬康を殺した二か月後の7月4日に飯盛山城で亡くなります。病死であったといわれますが、一説にはうつ病であったとか。

相次ぐ身内の死で心身を病み、義興の死が大きなきっかけとなって病状は悪化。冬康を死に追いやった後悔もあったのかもしれません。長慶の死は二年後の葬礼まで秘匿されました。

その後、三好家は義継の後見として三好三人衆、松永久秀らが支えますが、やがて内側から瓦解。天下は15代将軍・義昭とともに入洛した織田信長に傾いていくのです。



【参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 今谷明・天野忠幸 監修『三好長慶 室町幕府に代わる中央政権を目指した織田信長の先駆者』(宮帯出版社、2013年)
  • 福島克彦『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』(吉川弘文館、2009年)
  • 藤岡周三『戦国ドキュメント 松永久秀の真実』(文芸社、2007年)
  • 長江正一 著 日本歴史学会 編集『三好長慶』(吉川弘文館、1968年 ※新装版1999年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。