刀伊の入寇 平安貴族が海賊を撃退?平和な時代に起きた海賊事件

勇猛果敢に戦う藤原隆家(『愛国物語 (新日本少年少女文庫 ; 第3編)』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
勇猛果敢に戦う藤原隆家(『愛国物語 (新日本少年少女文庫 ; 第3編)』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 あなたは平安時代と聞いて、どんなイメージをお持ちですか?

 雅な貴族文化、平和、源氏物語… そんなイメージをお持ちの方も多いと思います。しかし平安時代は、私たちが想像するより遥かに深刻な危機に見舞われた時代でもありました。飢饉や感染症も頻発し、盗賊が跋扈して内乱や外国からの侵攻にも見舞われているのです。

 今回は寛仁3年(1019)に、日本が女真(じょしん)族を中心とした海賊から侵略を受けた事件「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」を取り上げたいと思います。この事件は現在放送中の大河ドラマ『光る君へ』の舞台と時代が重なっています。実際に藤原道長は京に健在で、九州では道長の甥にあたる人物が九州で防衛の指揮を担当しています。

 刀伊の入寇は、どのような危機があり、人々は防衛のためにどのように動いたのか。実際に見ていきましょう。

アジアで暴れ回った刀伊

 「刀伊」は、高麗(こうらい)が蛮族、特にアムール川水系を中心に勢力を築いていた女真族を指して用いた言葉です。高麗語で高麗以東の夷狄(いてき)を意味する東夷(とうい、 toy)を、日本の文字で表現したのが「刀伊」だとか。

 刀伊の入寇のお話の前に、当時のアジア情勢に触れておきましょう。

 9~11世紀において、九州沿岸部では新羅や高麗からの海賊による略奪が相次いでいました。当初は交易に従事した存在でしたが、アジア情勢の変化によって次第に海賊化していきました。

 西暦926年、朝鮮半島北部にあった渤海が滅亡。これにより、女真族の交易路が大幅に狭まっていきます。その後、女真族による高麗沿岸部への略奪が頻発。1018年には、鬱陵島にあった于山国が女真族によって滅ぼされるまでに至ります。

 こうしたアジア情勢の変化により、海を隔てている日本も決して無関係ではありませんでした。

刀伊の侵攻図(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
刀伊の侵攻図(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

対馬と壱岐国での殺戮

 「刀伊の入寇」の始まりは、対馬国と壱岐国でした。

 寛仁3年(1019)3月28日、船50隻に乗った兵3000人が対馬国に上陸。略奪や放火を行い、多くの島人を殺害。この攻撃で40人近くが殺害され、拉致被害は300人以上にのぼったとされています。

 対馬国の長官国司である対馬守遠晴は命からがら脱出、一時は対馬国の判官代・長峰諸近が捕らわれる事態となりました。のちに長嶺諸近も脱出しますが、これにより、侵攻の中心勢力が女真族の刀伊だということが判明します。

 この時の侵攻では、人的被害の他に日本最古の対馬銀山が放火されるなど甚大な被害を出していました。しかし、刀伊兵は侵攻の手を緩めることはなく、対馬国を経たのち、さらに壱岐国へと上陸。同地でも略奪や放火を行い、多くの民を殺したりさらったりしています。

 壱岐国の長官国司である壱岐守藤原理忠は150人足らずの兵を集めて抗戦しますが、衆寡敵せずに敗れ、討ち死に。同国の嶋分寺でも抗戦が続けられましたが、程なくして陥落。最終的には、壱岐国の島民370人近くが殺害され、拉致された人数は1300人近くに及びました。

藤原隆家の活躍と刀伊撃退

 刀伊軍の侵攻は、やがて九州北部にまで及んでいきます。4月7日に筑前国(福岡県)の沿岸部が相次いで襲撃され、翌8日には博多湾の能古島が制圧されるまでに至りました。

九州への侵攻経路(読売新聞オンラインの記事を元に作成。出典:国土地理院地図を加工)
九州への侵攻経路(読売新聞オンラインの記事を元に作成。出典:国土地理院地図を加工)

 4月9日、刀伊軍は博多に上陸。日本軍が博多警固所で迎撃して戦端が開かれました。このとき、日本軍の総指揮を担ったのが太宰権帥・藤原隆家です。隆家は、関白・藤原道長の甥にあたる人物で、太宰府に眼病の治療のために訪れていたところでした。

 太宰権帥は公卿(従三位以上。国家の運営に関わる)に相当する高官ですが、事実上の閑職です。加えて隆家には実戦を指揮した経験はありませんでした。

 しかし隆家は、太宰府の官人である太宰大監・大蔵種材や九州の豪族団を統率。最大数千ほどの軍勢を糾合するに及びます。隆家は日本軍を率いて勇猛果敢に迎え撃ち、結果的に刀伊軍を撃退することに成功しました。記録では日本軍の鏑矢の音に動揺したとあり、刀伊軍の軍律は乱れていた様子が窺えます。

 しかし刀伊軍は、未だ能古島に兵を置いていました。4月10日と翌11日、猛烈な北風が吹いて刀伊軍は島に留まっています。

 日本軍はこの間に40隻近い兵船を加えて防衛体制を強化していました。

 12日、日本軍は志摩郡沿岸部で刀伊軍とぶつかり、再び撃退に成功しています。翌13日には、刀伊軍は肥前国松浦郡に侵攻。しかしここでも日本軍が勝利を収めています。程なくして刀伊軍は九州沿岸を経て対馬に寄港。そのまま本国へ退却していきました。

 藤原隆家らは見事に九州を守り抜いたことになります。

朝廷の事後策の遅れと論功行賞

 戦後になって、藤原隆家は高官に対して事後処理を相談しています。このとき、隆家が相談したのが大河ドラマ『光る君へ』でお馴染みの藤原実資です。

藤原実資(『前賢故実』より。出典:wikipedia)
藤原実資(『前賢故実』より。出典:wikipedia)

 隆家は、刀伊軍侵攻の情勢報告の手紙に加え、拉致されて救出された女性らの申文を添えて提出します。

 このとき、朝廷内部では、隆家の叔父・藤原道長が権力を掌握。絶対権力者として君臨していました。通常であれば、道長にも働きかけるところですが、かつて隆家は道長と権力争いの末に敗れ、左遷された経緯がありました。

 4月18日、朝廷において陣定(対策会議)が開催されます。しかし実資が出席する前に会議は終了。恩賞の勅符は下されたものの、その他には太宰府への警戒命令や神仏への祈祷を行うという内容でした。

 それどころか、隆家の行動が問題視される事態となります。隆家が送った飛脚便に「奏」の字が無かったからです。

 さらに貴族たちは、隆家からの情勢報告が追加で来ないことにも不満を漏らしていました。藤原道長も、22日の賀茂祭の見物の予定を中止していません。国外からの侵攻に対して、平安貴族たちの大部分が危機意識を持っていないことがわかりますね。

 4月25日には、京にも刀伊軍退却の知らせが届きます。しかし京の平安貴族たちは、防衛に関わった者たちに対して十分に報いようとはしていませんでした。

 6月29日、朝廷において再び陣定が開催。藤原公任や藤原行成が、防衛にあたった人間に対する恩賞を不要だとする意見を述べます。恩賞の勅符が発給されたのは4月18日で、すでに主要な防衛は終わっていたからだとするものです。

 なぜ、このような意見が出されたのでしょうか?

 おそらくは、当時の最高権力者である藤原道長への忖度がされた可能性があります。防衛で功績を挙げた藤原隆家は、道長の甥ですが政敵でした。隆家の功績が認められることは、競合する道長にとっては目障りです。

 しかしここで、藤原実資は毅然と意見を述べています。新羅の入寇の例を引き合いに出して説得。恩賞を与えるべきと主張しました。結局、決議では「本来、恩賞は与える必要がない」としつつも与えるという方針が決定。大蔵種材が壱岐守に叙任されています。

 同年9月、刀伊によって拉致されていた日本人270人ほどが高麗から送り届けられました。それでも全員の帰国は果たされませんでした。

 平安時代を揺るがした刀伊の入寇は、当時の諸問題を炙り出しています。平安時代が、決して平和でなかったことが窺えますね。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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