「藤原隆家」やんちゃでかわいい問題児から外敵撃退の英雄へ
- 2024/03/29
藤原隆家(ふじわらのたかいえ、979~1044年)は藤原道隆の四男(正室の子としては次男)で、藤原道長の甥であり、政敵です。荒くれ者として知られ、花山法皇襲撃事件を引き起こし、兄・藤原伊周(これちか)とともに失脚します。しかし、政界復帰後、「刀伊(とい)の入寇」では外敵を撃退する活躍をみせました。また、明るくかわいい面が『枕草子』に、道長との微妙な交流が『紫式部日記』などに描かれています。藤原隆家は波瀾万丈の生涯を送っています。
【目次】
清少納言に一本取られた「クラゲの骨」
母は藤原道隆の正室・高階貴子。同母兄・伊周は21歳で内大臣に昇進し、三男ながら嫡男として期待されました。同母姉・定子は一条天皇の皇后。同母弟に僧になった隆円、同母妹に三条天皇女御の原子(もとこ)、実名不詳の敦道親王妃、御匣殿(みくしげどの)がいます。ちゃっかり隆家「その言葉いただき」
『枕草子』に隆家が姉・定子のもとに参上したときの話があります。隆家:「この隆家は素晴らしい扇の骨(骨組みの部分の竹や木など)を手に入れました。それに紙を貼って差し上げようと思いますが、並大抵の紙では釣り合いが取れません。目下、その紙を探しているところです」
定子:「いったい、どんな骨なの」
隆家:「何とも素晴らしいものです。見たこともない見事な骨だと、家来どもも申します。これほどのものは私も見たことがありません」
清少納言:「そういうことでしたら、さしずめクラゲの骨でございましょう」
隆家:「うまいこと言うなあ。その言葉をいただいて、この隆家の秀句にしよう」
ありえないものをクラゲの骨に例えた清少納言の言葉を面白がり、和歌などのネタに欲しがる隆家。ちゃっかりした性格がうかがえます。
花山法皇の挑発に乗り恥をかく
『大鏡』には、隆家が花山法皇に挑発された逸話があります。花山:「いくら気の強いそなたでも、わが御所(花山院)の門前は車で乗り抜けることはできまい」
隆家:「この隆家が何で通れないことがございましょう」
隆家は車輪のがっちりした車に強い牛をつなぎ、家来50~60人に先払いの声をあげさせます。一方、花山法皇側は荒法師や童髪の若者ら70~80人を通りに並べ、門の内側にも荒武者が待機。双方、弓矢は持っていませんが、石や棒で武装します。結局、隆家は牛車を手前で引き返し門前通過を断念します。
隆家:「つまらないことを言ってしまったものだ。おかげでとんだ恥をかいてしまった」
身分の高い人の邸宅前は牛車や馬を下りて通行するマナーがあり、花山院に仕える荒っぽい連中は門前を素通りする牛車に投石することがありました。隆家を負かした花山法皇はすこぶる上機嫌でしたが、褒められるようなことでもありません。
早合点で花山法皇誤爆?「長徳の変」で失脚
藤原道隆は父・兼家から関白・摂政を継ぎ、一家は繁栄。後に「中関白家」と言われます。長女・定子が一条天皇に入内。道隆は長徳元年(995)4月、43歳で急死しますが、隆家はその直前に17歳で権中納言に任官します。この年、道隆の弟・藤原道長が政権を掌握すると、中関白家は道長の政敵となり、緊張が高まります。7月27日、8月2日には家来同士が乱闘。隆家の家来が道長の随身を殺害する事件まで起こします。
死者も出た家来同士の乱闘
長徳2年(996)、「長徳の変」で藤原伊周、隆家兄弟が左遷されます。『栄花物語』によると、きっかけは隆家が1月16日夜半、花山法皇に矢を射かけた事件。花山法皇は藤原為光の四女を愛人とし、同じ邸宅に住む姉は藤原伊周の愛人。伊周は花山法皇が自分の愛人に手を出していると勘違いし、兄の相談を受けた隆家が花山法皇の袖を射抜いたといいます。
ほかの史料だと、花山法皇と隆家の家来同士の乱闘。花山院の若者2人が首を取られます。また、『日本紀略』によると、法皇の輿が射られました。これが誇張され、『栄花物語』では隆家が法皇を狙って矢を放ったことになったようです。
出雲権守への左遷と復帰
いずれにしても法皇襲撃は大事件。半月後、藤原伊周の側近の邸宅が家宅捜索を受け、長徳2年(996)4月24日、隆家は出雲権守、伊周は大宰権帥への左遷が決まりました。出雲守は出雲の国司長官、大宰帥は九州地方を管轄する大宰府の長官で、権官は仮の官、定員外の官職ですが、この場合は権限、職務は一切なく実質的な流罪です。ただ、長徳3年(997)に大赦があり、4月5日に伊周、隆家の京召還が決定。隆家は5月21日に帰京し、翌年10月には兵部卿として政界復帰。20歳での再スタートです。
隆家は長保4年(1002)に権中納言、寛弘6年(1009)には中納言と昇進。地歩を固めていきます。
政敵・道長も一目置く豪胆さ 微妙な交流も
『大鏡』には、藤原道長が隆家に「先年の事件は私が(伊周、隆家の処罰を)要請したと世間で噂されていますが、そんなことはありません」と弁解する逸話があります。かつて家来同士が殺し合いを演じ、道長にとって最も危険なライバルですが、13歳下の隆家に対し、随分と気を遣っていたことがうかがえます。
道長邸での隆家を観察する紫式部
藤原道長の日記『御堂関白記』によると、隆家ともある程度交流を保っていました。『紫式部日記』にも、道長邸の祝宴に参加する隆家の姿があり、紫式部はその様子をよく観察しています。寛弘5年(1008)9月、道長の長女・彰子が一条天皇の第2皇子・敦成親王(後一条天皇)を出産し、貴族が集まったとき、隆家は藤原兼隆(道兼の次男)とふざけ合い、能天気な姿を見せています。定子が産んだ一条天皇の第1皇子・敦康親王を後援する立場の隆家としては、敦成親王誕生は複雑な心境のはずですが。
また、寛弘5年11月、敦成親王誕生50日の祝宴では泥酔して女房の袖を引っ張り、聞くに堪えない冗談を言って大騒ぎしています。
近所の実資にたびたび身の上相談
寛弘7年(1010)、5歳上の兄・藤原伊周は37歳で死去。中関白家の復権は隆家の双肩にかかります。隆家は邸宅が近い藤原実資を訪ね、いろいろと相談をしていました。深夜、藤原道長の側近の一人・藤原斉信(ただのぶ)とのいざこざの件で怒りを露わにし、20歳以上離れた実資になだめられたこともあります。
長和2年(1013)には眼病を患い、この件でも8、9月に実資に相談。九州に興味があるとも語っています。宋(中国)の名医が大宰府に逗留していて、翌年には砂金10両で薬を購入。また、熊野詣でもしており、隆家は眼病をかなり苦にしていました。名医に診てもらうためか、自ら大宰権帥任官、九州転勤を望みます。
次男・経輔が道長邸で元服
隆家は長和3年(1014)11月の除目(人事)で大宰権帥に任じられ、翌年4月に赴任。正二位に昇進します。大宰府の長官・大宰帥は親王が任じられ、現地に赴任することはなく、大宰権帥か次官の大宰大弐が実質的なトップ。外交、国防にも関わる重要な職務で、長徳の変で伊周が左遷された官職と同じですが、このときの人事の意味合いはまったく違います。
なお、大宰権帥任期中の寛仁2年(1018)12月、次男・経輔(つねすけ)が藤原道長邸で元服。道長の異母兄・道綱が加冠の役を担いました。道長と隆家の関係は対立だけではなかったのです。
「刀伊の入寇」外敵撃退、拉致された島民奪還
寛仁3年(1019)3月、後に金や清を建国する中国東北部の民族・女真族(刀伊)が50艘以上で対馬、壱岐を襲い、大勢の島民を殺害、拉致します。「刀伊の入寇」です。
4月には博多田(福岡県福岡市博多区)に襲来。隆家は素早い処置で侵入を防ぎます。その後も筑前、肥前など各地で戦闘があり、九州北部の武士を把握してきた隆家の人望と決断力が功を奏し、外敵を撃退します。
隆家や勲功の武士に恩賞なし
『大鏡』は「知恵才幹の優れた人物だから九州の人々が心服した」と隆家の功績を称賛しています。また、敵船追撃の功績があった平致行は伊周の側近・平致光と同一人物とみられます。彼ら中関白家に仕えていた桓武平氏の武士が隆家赴任前から九州に軍事拠点を築いていた可能性があります。
ただ、朝廷の対応は形式主義に終始。大宰府が申請した武士11人のうち2人にしか恩賞を与えません。隆家自身はこの11人に名はなく、配下の武士に恩賞を譲ろうとしたのか、申請しなくても当然恩賞があると信じていたのか分かりませんが、隆家にも特に恩賞はありませんでした。
この理不尽さは連絡のタイムラグが原因。九州では寛仁3年(1019)4月13日に戦闘が終わりますが、外敵撃退の勲功ある者に恩賞を出すとの決定は4月18日付でした。
黄金300両 島民救出も成功
『大鏡』によると、高麗(朝鮮)の国王は敗退した刀伊の帰路を待ち伏せ、拉致された対馬・壱岐の島民を奪還。隆家が高麗の使者に黄金300両を贈り、無事に島民らの帰国を果たしたといいます。一方、朝廷は刀伊の入寇に高麗の関与を疑うなど常に対応が遅れます。遠い九州での出来事に関心が薄かった感じも否めません。隆家は寛仁3年(1019)11月に大宰権帥の辞表を提出。任期終了間近であることは分かっていたはずで、抗議の意思を示したのでしょうか。
殺人事件関与?晩節汚す
長暦元年(1037)から2度目の大宰権帥を務めます。その間、長久元年(1040)に殺人事件関与が疑われます。前肥後守・藤原定任殺害の実行犯として藤原正高が指名手配されますが、この正高は隆家の有力家臣でした。関白・藤原頼通からは「犯人を隠し立てするな」という圧力もかけられますが、結局、隆家への嫌疑はうやむやになります。
事件は定任に恨みを持つ別の者が逮捕され、その容疑者が獄中自殺し、「さらにほかの人を疑ってはならない」という通達が出ました。
殺人事件の黒幕だったのか、冤罪か不明ですが、悪い噂で晩節を汚したのも隆家らしい蛮勇かもしれません。
おわりに
藤原隆家は長久5年(1044)元日、66歳で死去。若い頃から問題行動が多く、わがままでプライドが高いという厄介な人物でしたが、その割には政敵・藤原道長、うるさ型の藤原実資をはじめ多くの人に好かれるという不思議な魅力がありました。そして、刀伊の入寇では一躍、国難を救う英雄となるのです。プラス、マイナス両面に振り切り、すごさとやばさ、だらしなさがある、この時代の中でも極めて個性的な人物です。
【主な参考文献】
- 倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房、2017年)
- 石田穣二訳注『新版枕草子 付現代語訳』(角川書店、1979~1980年)角川文庫
- 紫式部、山本淳子訳注『紫式部日記 現代語訳付き』(KADOKAWA、2010年)角川ソフィア文庫
- 保坂弘司『大鏡 全現代語訳』(講談社、1981年)講談社学術文庫
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