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天皇家、摂関家、将軍家~お江の華麗なる血脈
- 2024/09/09
江戸時代の徳川幕府2代将軍・秀忠の正室であるお江(崇源院)。幼い時に2度も落城を経験し、3度の結婚をするという数奇な運命の持ち主ですが、そんなお江の子や孫が、国家の権威や権力の中心人物となっていったのをご存じでしょうか?
伯父は織田信長、夫は徳川秀忠
お江の父親は近江の戦国大名だった浅井長政で、母親は織田信長の妹・お市でした。お江の姉には、豊臣秀吉の側室となった淀殿、京極家に嫁いだ常高院がおり、浅井三姉妹として歴史ファンにはおなじみです。お江は、徳川家康の後継者となる秀忠の正室となりますが、彼女にとっては3度目の結婚でした。初婚の相手とは離別させられ、2度目の相手の豊臣秀勝(豊臣秀次の弟)は朝鮮出兵の陣中で没してしまいました。
秀忠は、天下人となった家康から慶長10年(1605)に将軍職を譲られ、お江は征夷大将軍の妻となったのです。
徳川将軍家を継いだ3代・家光
秀忠とお江の夫婦は子だくさんでしたが、最初の子である千姫(豊臣秀頼正室)から女子が続き、男子は家光と忠長の二人だけでした。嫡男の家光は、乳母(春日局)によって育てられましたが、二男の忠長はお江の強い希望により、お江の手元で育てました。一説によるとお江は、家光よりも忠長を溺愛していたと言われています。
家光は元和9年(1623)に秀忠の後を継いで3代将軍となり、お江は将軍の母となりました。江戸時代を通じ、正室の子が将軍家を継いだのは家光だけとされています。一方の忠長は改易処分の末、自害するという悲劇に見舞われるのです。
娘は天皇に入内し、孫娘は明正天皇に
秀忠とお江の末娘は和子と言います。徳川家の権威を高めるために朝廷との縁組が進められ、後水尾天皇の正室に和子を入内させることになりました。この縁組は家康のアイデアとされ、それを秀忠が実行したのです。天皇と和子は何人かの子宝に恵まれます。二人の間の皇子が天皇になれば徳川家は外戚となりますが、待望の皇子は夭折してしまいました。
寛永6年(1629)、天皇は幕府への通告なしに娘の興子内親王に譲位し、明正天皇が即位します。奈良時代以来の女帝の誕生で、お江は天皇の祖母となりました。
ただ、明正天皇は独身のまま生涯を閉じたため、徳川家の血脈は途絶えてしまいます。
娘婿は関白、孫2人が摂政へ
徳川家との血縁関係とは別に、お江には亡き豊臣秀勝との間に生まれたもう一人の娘・完子がいました。お江が秀忠に嫁ぐ際、完子は伯母である淀殿に引き取られ、豊臣家の娘として育てられました。淀殿は完子を九条幸家に嫁がせます。九条家は公家の名門・藤原氏の血脈である五摂家の一つで、幸家は後に公家の最高位にあたる関白・左大臣に昇進します。
幸家と完子の間に生まれた長男・康道は、同じ五摂家の二条家を相続し、明正天皇と後光明天皇の二代にわたり、天皇を補佐する摂政を務めました。また、二男・道房は九条家の跡継ぎとなり、病身をおして短期間ながら後光明天皇の摂政に就任しました。
お江からすれば、娘婿が関白となり、孫は摂政にまでなったわけです。
おわりに
自分の息子が政権トップの将軍、娘は天皇の后と関白の妻、そして孫娘は天皇で、別の孫は補佐する摂政・・・今の時代ではとても考えられないお江の華麗なる血脈ですね。ただし、お江は寛永3年(1626)に亡くなっており、明正天皇の即位、二条康道の摂政就任は没後となっています。
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