浅井三姉妹の末娘 「江」の隠された真実とは

これまでの江(ごう)は、夫である徳川秀忠は歴代将軍の中で唯一、側室が一人もいなかったほどに、嫉妬深い人物として知られていました。また、秀忠夫妻は長男家光よりも次男国松を寵愛して、国松を将軍にしようと考えており、危険を察した家光の乳母・春日局が徳川家康に直訴し、「跡継ぎは家光とする」という家康の一言を引き出した、という話でも有名です。つまり江は「嫉妬深く、わがままな女性」として描かれることがほとんどだったのです。

しかし、2010年の大河ドラマ『江 姫たちの戦国』の放送では、従来の江のイメージを覆すものでした。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という3人の天下人と渡り合う気丈な女性としてポジティブに描かれ、このドラマをきっかけに、あらためて「日本史上、最も有名な姉妹」である浅井三姉妹の末っ子である「江」にスポットが当たりはじめたのです。

大河ドラマでは上野樹里さんが見事な演技を披露したことも江のイメージアップにつながったのでしょう。『江 姫たちの戦国』の脚本は田渕久美子さんが担当されましたが、そのベースに使われたのは高名な歴史学者が1997年に出版した『戦国三姉妹物語』と思われます。また、Wikipediaの記述も、この本がベースとなっているようです。

歴史を考察するうえで重要なのは ”残された史料” ですが、一般的な区分として「一級史料」「二級史料」「三級史料」「野史」に分類されます。つまり信憑性が高いと考えられるものほど、上級の史料となります。一般的に「一級史料」とされるものは後世に残ることを全く視野に入れていない私的なもので「私的な日記」「私的な手紙」などが該当します。時の権力者が編纂を命じた公的な記録などは、権力者に都合が良いように改ざんされる可能性があるため、「一級史料」とはなりません。

『戦国三姉妹物語』を書いた方は高名な歴史学者ですが、残念ながら他の研学者・専門家から「史料の検出方法や解釈に問題がある」と指摘されています。今回はその一例として「佐治一成との結婚」について挙げるとともに、秀忠夫人となってからの江の「隠された謎」について迫ってみたいと思います。

佐治一成との最初の結婚について

『戦国三姉妹物語』では、江の最初の結婚相手は佐治一成であり「豊臣秀吉が取り計らったもの」として描かれています。

これはWikipediaにも書かれている事ですが、実は、この話の裏付けとなる一級史料は全く存在しません。佐治家の数ある家系図の中にも、江と佐治一成が結婚したという記述は見当たらず、徳川方に残っている史料でも「天正年中、佐治与一郎と縁組」とあるだけなのです。

縁組と結婚は似ていますが、違うものです。縁組とは、いわば「婚約」です。『佐治畿衛家譜』という二級史料に「一成は当主である兄、信方が討ち死にしたので家督を継ぎ、その時に浅井長政の娘を娶った」とあります。

この史料を信じるとすれば、佐治一成と江が「縁組」をしたのは天正2年(1574)となります。浅井三姉妹のそれぞれの生年月日について確たる史料はありませんが『以貴小伝』、『幕府祚胤伝』の2つの史料から推察すると、江は天正元年(1573)の生まれと見て良さそうです。

両史料とも二級史料ですが、計算根拠は違うのに結果は一致しているので、可能性は高いと見て良いでしょう。Wikipediaでも「天正元年」と表記しています。つまり、この時、江は数え年で2歳だったのです。

政略結婚が多かった戦国時代には赤ん坊のうちに婚約である「縁組」をすることは、よくあることでした。そして織田信長が本能寺の変で死ぬのは天正10年(1582)6月2日です。つまり天正2年ならば、まだ信長は生きており、豊臣秀吉も天下人ではありません。つまり、この政略結婚を仕組んだのは秀吉ではなく、信長ということになるのです。

北の庄城址公園内にある浅井三姉妹の像(福井県福井市中央1丁目)
北の庄城址公園内にある浅井三姉妹の像(福井県福井市中央1丁目)

天正2年(1574)というと、浅井長政と死別したお市の方は3人の娘を連れて織田家に戻っていた時ですので、あり得る話です。信長から佐治家との政略結婚を迫られた、お市の方は、あえて江を指名したのではないでしょうか?

なぜなら長女の茶々、次女の初は、それぞれ6歳と5歳であり、縁組となると実際に行かされてもおかしくない年齢でした。しかし2歳の赤ん坊なら、さすがに「式を挙げるのは、もう少し先にしよう」となります。つまり「江なら実際に輿入れしなくても済む」とお市の方は考えたのではないでしょうか?まさに戦国時代という大変な時代に3人娘を守り抜こうとする母親のサバイバル戦略が働いたのかも知れません。

これはあくまで想像に過ぎませんが、各種史料を調べてみると、江と佐治一成の間には何もなかった、あるいは「婚約はあったが、結婚はなかった」という程度に見るのが正しいと考えられるのです。

しかし、この一例だけをもって『戦国三姉妹物語』の内容を全否定はできません。要は「ところどころ怪しい部分はあるけれど、全体としては概ね正しい」と考えて良いのではないでしょうか。

淀殿(茶々)の残した1通の手紙

さて、ここからは江の「隠された謎」について見ていきます。

江について残されている「一級史料」はわずかに2通の手紙のみです。いずれも次姉である初にあてたもので、内容は初が家光に贈り物を送ってくれたことに対するお礼状です。岐阜にある後背山栄昌院が所蔵しています。

後背山栄昌院は初の死後、彼女の侍女達が建立した初の菩提寺ですので、そこに江から初への手紙が残っていることは極めて自然なことであり、まず、間違いなく江の自筆でしょう。ただ、内容は「お礼状」ですので大したことは書いてありません。しかし、それ以外には全く一級史料は存在しないのです。いかに江という人物を探るのが難しいかを理解して頂けるかと思います。

しかし史料というのは、書いてあることだけでなく、逆に書いていないことが手掛かりとなることもあります。次に江の隠された謎に迫る一通の手紙をご紹介しましょう。これは慶長9年(1604)、伊勢遷宮の際に、宇治橋の架け替えを豊臣家が負担することを、淀殿が伊勢神宮に伝えた手紙で「淀殿自筆消息」と呼ばれる手紙の一部です。意訳でご紹介します。

「私も秀頼も息災にしておりますのでご安心下さい。また、江戸では若君が生まれましたので、こちらもご安心下さい」

ここで「若君」と書いているのは、年代的に家光のことと考えてよく、家光の生まれ年を確定する一級史料として知られている手紙です。一見、単なる挨拶文に読めますが、何か違和感を感じませんか?例えば病院で出産という場合、外で待っている旦那さんに担当医師はこう言うでしょう。

「赤ちゃんもお母さんも元気です。ご心配はいりません」

つまり「若君」の母であるはずの江についての言及が無いのです。仲の良かった浅井三姉妹の長女である淀殿はなぜ、江戸にいる江について言及しなかったのでしょうか? 普通であれば「江戸では若君が生まれ、母ともども息災ですので、こちらもご安心下さい」となるように思えますが、そうではないのです。

江と秀忠の間には2男5女がおり、以下の順番で生まれています。ちなみに江の年齢を入れてみました。

  • 千姫:慶長2年(1597、江 24歳)
  • 珠姫:慶長4年(1599、江 26歳)
  • 勝姫:慶長6年(1601、江 28歳)
  • 初姫:慶長7年(1602、江 29歳)
  • 徳川家光:慶長9年(1604、江 31歳)
  • 徳川忠長:慶長11年(1606、江 33歳)
  • 徳川和子:慶長12年(1607、江 34歳)

淀殿の手紙にある「若君」は5番目の家光のことです。5人目で、やっと跡継ぎとなる男の子が生まれたのです。「ご安心下さい」という言葉は、その意味でもあると思われます。

さらに不思議なことに江戸側の同時代の記録である『当代記』には以下のように書かれているのです。

「七月十七日未刻、武州右大将秀忠公若君誕生、十個月に満たずといえど平産」

ここでも母は誰なのかが記載されていません。豊臣秀吉は慶長3年8月18日に死亡しており、家康は五大老の筆頭として京都の伏見城におり、秀忠は江戸城を守っていました。家康が豊臣家を滅ぼすべく仕掛けた、大坂夏の陣・冬の陣は慶長19~20年(1614~15)のことなので、この時期はまさに家康が次の天下人を狙い、大阪で暗躍していた時なのです。

段々と険悪になっていく豊臣と徳川の関係を懸念した江は、この時期に何回も大坂に出かけています。両者が争わずに済むよう、なんとかしたかったのでしょう。

金地院崇伝が受け取った手紙

時代が下って、家光が3代将軍に就任した時のことです。京都南禅寺の僧侶・金地院崇伝は「新将軍の誕生日祈祷をしたいので家光の誕生日を教えて欲しい」と幕府に要請しました。すると、以下のような手紙が返事として返ってきたのです。これも意訳してみます。

「御祈祷のために将軍様のお生まれ月日を、とのことですが、春日の局様に打診したところ御台様(江のこと)の御意にて、生まれ月日のこと、いずかたへも堅く申すまじきとのことで御座います」
(出世大望之衆目子書留)

つまり、家光の生年月日は誰にも言ってはならない、と江が厳命を下しているので教えられない、というのです。一体なぜ、江はこんな厳命を下したのでしょうか?

この疑問に対する答えは一つしか考えられません。「家光の生年月日を知られると母親が江でないことがバレてしまう」としか考えられないのです。多分、慶長9年7月17日に家光が江戸で生まれたとき、江は江戸城にいなかったか、あるいは、江戸城にいても7月17日に出産するような状況ではなかった何等かの証左があったのだと思います。

先の淀殿の手紙の内容から考えると、淀殿も江が若君の母親ではないことを知っていることになります。つまり、家光が生まれた時、江は大坂にいた可能性がとても高いのです。

ならば、一体誰が徳川家光の母親だったのでしょうか?

侍妾制度の存在

秀忠には確かに側室は一人もいませんでした。当時は一夫多妻制度でしたので「側室」は正式に婚姻をした妻を指します。最もえらいのが正妻で、側室はその次でした。明治時代になってもこの制度は存続されており、明治3年に政府が出した法律では妾は正式に2等身の親族と位置付けられています。明治31年に民法が発布されるまで続いていました。

ですので秀忠も側室を持とうと思えば、いくらでも持てたはずですが、生涯側室を持ちませんでした。理由は分かりません。しかし侍妾制度というものが存在していました。これは正妻が認めた人であれば女中と夜伽をしても良い、という制度です。

当時、大坂に行くことが多かった江にしてみれば、やむを得ないことであったのでしょう。秀忠は案外に精力家で、よく知られている「幸松」(のちの保科正之)を静という女性に産ませています。これが江に知られるところとなり、さすがの江も切れかかっています。なぜ幸松が問題になったのかというと、侍妾制度は一応、「江が認めた相手」であるので、江も納得できる訳ですが、静は一般人の女性であり、全くのルール外の行為だったからです。

話を戻しますが、おそらく徳川家光の母は当時、大奥に仕えていた女中のうちの誰かだったのでしょう。それは江が認めた相手でもあったのです。さて、そうなると7人の子供のうち、誰が江の子供で、誰がそうでないかを知りたくなります。そして様々な事実から「本当の江の子」がある程度、特定できそうなのです。

7人の子供に対する扱い

まず長女の千姫は間違いなく江の子供です。なぜなら千姫が大阪の豊臣秀頼に嫁ぐことになった際、わざわざ大阪まで同行しているのです。江にとっては古巣である大阪の豊臣家ということもあったでしょう。また当時の状況を心配してのこととも思われますが、嫁ぎ先まで一緒に行き、相手に挨拶をしているのは千姫だけなのです。

千姫は秀頼の死によって江戸に戻り、本多忠刻に再嫁しますが、江は再嫁した千姫と、よく手紙のやり取りをしていたそうです。それに対し、珠姫、勝姫、徳川和子のときは見送りだけで済ませ、その後、連絡を取ろうとはしていません。

初姫は江が大坂にいる時に生んだ子ですので、間違いなく江の子供です。良く知られているとおり、初姫は子に恵まれなかった次姉の初が養女としてもらい受け、京極家を継がせています。江と初は頻繁に手紙のやり取りをしていたようで、当然、その手紙で初姫との連絡も行われていたと推測されます。

また江は先夫、豊臣秀勝との間にもうけた完子(さだこ)が公家の九条家に嫁いだ後も、頻繁に手紙のやり取りをしていたようです。おそらく九条家には江からの手紙が残されているのではないかと推測されますが、九条家はそれについて明かしてはくれません。

また、徳川忠長も間違いなく江の子供です。これはその溺愛ぶりから嫌でも分かってしまいます。

江の立場と心情

やはり自分の腹を痛めて産んだ子と、秀忠が女中に産ませた子とでは心情的に違いが出てしまうのは、やむを得ないことだったのでしょう。

また、最初は完子、次は千姫、その次は初姫と女性が続きます。考えてみれば江の母・お市の方もついに男の子を産みませんでした。そのことを考えれば「女系なのかな?」という心配が頭をよぎったでしょう。そして家光が生まれた時、江は31歳。もう子供は産めないかもしれません。そうなれば、家光を大事に扱うしか徳川家を守る道ははありません。ならば家光は「江の子供」という扱いにしてあげようとしたのでしょう。

それで「生年月日は誰にも言うな」という命令を出したのです。慶長9年7月17日に江が子供を生めるはずがない、ということを覚えている人がいる限り、生年月日を公表すると「おかしい」と思う人が現れてしまう可能性があるからです。

事実、金地院崇伝に家光の正式な生年月日が伝えられたのは江の死後、10年も経ってからでした。さすがに、それだけの時間が過ぎれば覚えている人などいなかったでしょう。そして徳川幕府の正式な記録である『徳川幕府家譜』には以下のように記されるのです。これも江が死んだ後の寛永年間のことでした。

家光公 幼名竹千代君
慶長9年7月17日、江戸城西の丸に誕生、御台様(江のこと)御腹

秀忠も当然、家光が江の子供ではないことを知っていたはずです。次期将軍を家光にするか、忠長にするか迷っていたのは秀忠だったと思われます。江は忠長を溺愛しましたが、決して次期将軍にとは考えていなかったようです。江は秀吉、家康と権力の頂点に立った人物をつぶさに見て育ってきたのです。そして、それが決して幸せなことではない、ということを痛感していたようで、忠長には平穏な人生を送るように諭していたようです。

しかし、忠長にはそれは伝わらなかったようで、逆に「俺の方が将軍になる資格がある」と思いこんでしまったのか、遂に乱暴狼藉を働くようになり、仕方なく家光は忠長に切腹を申しつけざるを得なくなります。

幸いなことに、それが起こったのは江が死んだ後のことでした。

おわりに

江は父から浅井家の血を受け継ぎ、母から織田家の血を受け継ぎました。ですので、豊臣秀勝との間に出来た完子は浅井、織田、豊臣の血を受け継いでいることになります。その完子が嫁いだ九条家からは大正天皇のお后として節子様が皇室にお入りになっています。そして昭和天皇始め、沢山のお子を授かります。つまり現代の天皇家には完子を通じて浅井、織田、豊臣の三つの家の血筋が受け継がれているのです。

本来は「ルール外」の存在であった「幸松」を江は引取り、他の子と同じように育てました。そして幸松は保科正之となり、徳川家光を支える大きな柱となってくれるのです。そして家光は徳川家の正史に「徳川家直系」と記されます。全ては江の配慮あってのことでした。「正妻の子」と「妻妾の子」では諸大名の見る目も違ったでしょう。ましてや正妻の江は、かの浅井長政、お市の方を父母に持つ由緒正しく輝かしい血筋なのです。

まだ戦国時代の名残りが色濃く残っている時代、浅井、織田、徳川の血筋を受け継いでいる直系の将軍であれば諸大名も一目、置かざるを得ません。そして3代家光の時代に徳川幕府は土台を固め、以後260年に渡り、平和な時代が続くのです。それは幼少の頃から辛い思いを味わってきた家康が心から願ったことだったのです。その家康の願いを引き継ぎ実現させたのは江だった、とも言えるのかもしれないのです。

崇源院像(京都養源院所蔵、出典:wikipdeia)
崇源院像(京都養源院所蔵、出典:wikipdeia)

残念ながら江を描いた絵は一枚も残されておりません。上記の画像は江の諡号(死んだ後に付けられた名前)である「崇源院」として伝えられているものですが、夫より先に死んだ江が僧服を身にまとったことはないはずであり、江であるという確証が得られたものではないことをお断りしておきます。

また、当記事の執筆にあたり、多くの部分を福田千鶴さんが中公新書より出した『江の生涯』から引用させて頂いたことを、ここに書き記しておきます。


【主な参考文献】
  • 福田千鶴『江の生涯 ― 徳川将軍家御台所の役割』(中央公論新社、2010年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
なのはなや さん
趣味で歴史を調べています。主に江戸時代~現代が中心です。記事はできるだけ信頼のおける資料に沿って調べてから投稿しておりますが、「もう確かめようがない」ことも沢山あり、推測するしかない部分もあります。その辺りは、そう記述するように心がけておりますのでご意見があればお寄せ下さい。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。