戦国時代の女性については、その人生に対する正確な史料がとても少ないことが知られています。
有名氏族の出身者であっても「〇〇の女(娘)」としか記されていないことも珍しくなく、当時の女性像に迫る手がかりは多くありません。
しかしそのような中でも、戦国の姫としてあまりにも有名な姉妹たちがいました。
それは近江の浅井長政と信長妹・お市の方の間に生まれた「浅井三姉妹」です。
戦国の激動期に生を受け、波乱に満ちた生涯を送った三姉妹。中でも末妹の「お江」は大河ドラマの主人公になるなど、殊にその名が知られているのではないでしょうか。今回はそんなお江にフォーカスし、その生涯について概観してみることにしましょう!
お江は近江国小谷城主「浅井長政」と、織田信長の妹である「お市の方」との間に生まれました。
「浅井 江」が本来の名前と考えられますが、ほかにも「お江与」や「小督(おごう)」などの呼び名があり、諱は「達子」であるなど不明な点も多いといえます。
姉に「茶々」、「初(初)」をもついわゆる「浅井三姉妹」の末妹で、ほかには「万福丸」「万菊丸」の兄弟もいました。
お江の生年は天正元(1573)年8月が定説とされています。もしこれが正しければ、同年9月の信長による攻撃で浅井長政の小谷城が落城した際、お市の方は幼い茶々とお初、それに生まれたばかりのお江を連れて落ち延びたことになります。
この時母娘を救出したのは織田氏家臣の「藤掛永勝」だったとされ、その後母娘は信長の弟にあたる「織田信包」等織田家の縁者のもとに身を寄せたとされてきました。しかし近年の研究では信包ではなく、信長の叔父・「織田信次」の保護下にあったことがわかっています。
天正2(1574)年、信次の戦死を機に母娘は信長のいる岐阜へと移ったと考えられています。
天正10(1582)年に本能寺の変で信長が「明智光秀」に討たれ、報復戦を制した「羽柴秀吉」や織田家筆頭の「柴田勝家」らによって、信長の後継者を決める「清洲会議」が開かれました。
その際にお市の方は柴田勝家に再嫁することが決まり、秀吉もこれに了承する旨の書状を確認しています。お市の方に伴われ、三姉妹は勝家の領国である越前国(現在の福井県あたり)の北ノ庄城へと移ることになりました。
しかし翌天正11(1583)年、対立を深めた秀吉の攻撃により勝家は賤ケ岳の戦いで敗北。北ノ庄城で自刃しますが、お市の方も勝家とともに果てる道を選びました。
生き延びた三姉妹を秀吉は保護しますが、その後彼女らを貢献したのは信長次男の「織田信雄」だったという説もあります。
この頃、お江は秀吉の意向によって織田信雄の家臣・「佐治一成」に嫁いだとされています。
ただしこの婚姻自体には不明な点が多く、いまも詳細はわかっていません。
佐治一成はお江にとって従兄にあたり、一成の父・「佐治信方」は正室に信長の妹・「お犬の方」を迎えていたことから織田氏の一族でした。秀吉は清洲会議後に尾張を領していた信雄を抱き込むことを企図したとも考えられています。
一成は天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いで秀吉と敵対した信雄についていたため、戦後に追放を受けてお江とも離縁することになったとされます。
いずれにせよお江の最初の婚姻に関する記録は少なく、諸説入り乱れて定説がない状態といえます。
その後、お江は二度目の結婚として秀吉の甥・「豊臣秀勝」のもとへと嫁ぐことになります。
この婚姻時期についても天正13(1585)年から文禄元(1592)年の間で複数の説が提唱されており、定かではありません。しかしいずれにせよ、戦国時代の結婚適齢期とされた十代半ば以降には秀吉に非常に近い武将のもとに再嫁している点が注目されます。
秀吉の天下統一事業の実行部隊として、九州や小田原の征伐に従軍し武功をあげた秀勝でしたが、文禄元(1592)年の朝鮮出兵(文禄の役)において在陣中の巨済島で病没。24歳での早逝でした。
お江は秀勝との間に娘の「完子」をもうけていましたが、その子は姉・茶々の猶子となり、やがて摂関家の「九条幸家」に嫁ぎました。
文禄4(1595)年、お江は生涯三度目の結婚として徳川家康の嗣子・「徳川秀忠」に嫁ぎました。
秀忠は本来、天正18(1590)年に上洛して秀吉養女の小姫(織田信雄の娘)と縁組していましたが、小姫の逝去によって実現しませんでした。
これらの婚姻には豊臣家と徳川家の紐帯を強めようという明白な意図が読み取れ、秀吉の妹である「朝日姫」も、夫と離縁させられてまで家康に嫁がされていました。
姻戚関係による豊臣・織田の血筋と徳川との同盟を進めるための切り札でもあったようですが、お江は秀忠との間に「千姫」、のちの「家光」「忠長」ら2男5女をもうけ、夫婦仲は良好だったと考えられています。
千姫はのちに「豊臣秀頼」の正室となり、家光は三代将軍に就任したことはよく知られています。
以下、お江が秀忠との間に出産した子を時系列順に並べてみましょう。「長男」「長女」などの順もあくまでお江と秀忠の子、という区分です。
このように、お江は秀忠と結婚してからの10年間、子をなし続けており、歴代の御台所で唯一の将軍生母でもあります。
戦後に行われた発掘調査の結果では、お江はどちらかというと小柄で華奢な体格だったと考えられています。これは父母や長姉が長身だったと想定されることとは対照的であり、小柄ながら幾度もの出産に耐える並々ならぬ体力と気力をもっていたことが想像されます。
秀忠にはお江以外の女性が産んだ子が2人ほどいたとされていますが、正式な側室は生涯もたなかったといいます。
豊臣と徳川の融和への願いを託されたかのような二人でしたが、慶長20(1615)年の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡。お江は元和2(1617)年に京都・養源院で長姉・淀殿と豊臣秀頼の菩提を弔っています。
この養源院とは、そもそも淀殿が父・浅井長政と祖父・浅井久政の二十一回忌にあたり、秀吉に願って文禄3(1594)年に創建した寺院でした。
「養源院」ももともと長政の院号であり、浅井のための新たな総菩提寺として位置付けられた特別な寺といえるでしょう。
養源院は元和5(1619)年に焼失しますが、お江の願いによって元和7(1621)年に再建されています。
激動の人生を歩んだお江は嘉永3(1626)年、江戸城西の丸において54年の生涯を閉じました。
死後は長子・家光の手により、徳川家菩提寺である増上寺に葬られました。
お江を通じて、浅井氏の血脈は徳川将軍家のみならず朝廷・皇室にまで受け継がれることとなりました。
激動の時代に滅びたかのように思われた一族の血が、確かに歴史に息づいていることに感慨を禁じえません。
いわばこれがお江にとっての戦いそのものであり、その意味においても彼女は究極的な意味での勝利者だったといえるのかもしれませんね。
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