「藤原頼通」道長の長男 摂関の地位に半世紀、栄華の日々と落日

 藤原道長の長男・藤原頼通(ふじわらのよりみち、992~1074年)は26歳で摂政、28歳で関白に就き、後一条、後朱雀、後冷泉の3代の天皇の51年間君臨しました。摂政の地位は1年だけだった道長とは対照的ですが、摂関政治の全盛期をリレーしたのです。その栄華の象徴が地上の極楽浄土、平等院の創建。一方、ほぼ同時期に前九年合戦が起きており、武士の台頭も感じられた時代です。藤原頼通の生涯をみていきます。

頼通13歳、雪の中の大役を案じる父道長

 母は道長の正室・倫子。同母弟に関白を継ぐ道長五男・教通がおり、同母姉妹はいずれも天皇か皇太子の正妃です。姉・彰子は一条天皇の中宮で、後一条天皇、後朱雀天皇の生母。妹の道長次女・妍子(きよこ)は三条天皇の中宮、四女・威子(たけこ)は後一条天皇の中宮、六女・嬉子は後朱雀天皇即位前の正妃で後冷泉天皇の生母です。異母兄弟には、右大臣となった道長次男・頼宗らがいました。

※参考:道長の正室・倫子の子供ら略系図
※参考:道長の正室・倫子の子供ら略系図

「若菜摘む春日の原に雪」

 長保6年(1004)2月5日、前年に元服した13歳の頼通は、藤原氏の氏神を祀る春日大社(奈良県奈良市)の例祭・春日祭の使者に立ちます。出発にはそれなりの貴族が従い、藤原道長は日記『御堂関白記』に「恐れ多い、恐れ多い」と書き、喜びを隠せない様子。翌日は暁からの雪が7、8寸(約20~25センチ)も積もるなか、藤原公任や花山法皇と和歌を交換し、大役を担う頼通を心配する思いを率直に表します。

〈若菜摘む春日の原に雪降れば 心遣ひを今日さへぞやる〉

(若菜を摘む春日の原に雪が降り、心配なので、今日、文を遣わしました)
『御堂関白記』より

大臣経験12日、史上最年少26歳で摂政

 藤原頼通は父・道長の権勢のもと、異常に早く出世します。15歳で従三位となり、参議を経ず、18歳で権中納言、20歳で正二位に昇進。22歳で権大納言に就きます。そして、長和6年(1017)3月、内大臣任官12日後、道長から譲られて史上最年少の26歳で摂政に就きました。

隠居の道長から強烈ダメ出し

 寛仁3年(1019)、関白に転じますが、引退した道長からときどき強烈なダメ出しを食らっています。

 例えば、寛仁3年8月、天台座主・慶円が大僧正辞任と引き換えに、愛育してきた良円の律師就任を申請し、頼通は許可しようとしますが、道長は「NO」。律師は僧正、僧都に次ぐ僧官。慶円とは不仲の道長が4年前に蹴った申請の蒸し返しだったのです。結局、良円の律師就任は道長死後になります。

 また、寛仁4年(1020)11月、藤原実資の養子・資平は修理大夫の兼務を命じられます。資平には不本意な人事で、実資がその意向を頼通に伝えますが、頼通の答えはこうです。

頼通:「父道長が(資平を修理大夫に)任ぜよと言われた。これに背くことはできないので、重ねて父にそのことを言うわけにはいかない」

 治安3年(1023)6月にも宮中の職務怠慢者への監督不行き届きを責められ、きつい叱責を受けています。

「后がね」に恵まれず…

 摂関政治のキモは、娘を天皇家に送り込んで皇子を産ませ、その皇子が即位し、天皇の外祖父の地位を確保することです。しかし、頼通には后(きさき)候補「后がね」となる娘が少なく、これが後々まで響きます。

 後朱雀天皇の中宮とした養女・嫄子(もとこ)、後冷泉天皇の皇后とした長女・寛子ともに皇子は生まれません。寛子は、後冷泉天皇に中宮がいながらも皇后として並立させ、天皇との仲も良かったのですが、皇子誕生には至りませんでした。

愛妻家?正室配慮し降嫁問題で涙 道長一喝

 藤原頼通の正室は具平親王(村上天皇の第7皇子)の長女・隆姫女王。父母ともに皇族という隆姫女王を妻に迎えた頼通に対し、道長は「男は妻(め)がらなり(男の価値は妻次第)」と歓迎。つまり、「いい嫁をもらったな」と喜んだのです。

 しかし、隆姫女王との間には子はできませんでした。

三条天皇が皇女の降嫁を提案

 長和4年(1015)、三条天皇は第2皇女・禔子(ただこ)内親王を頼通の妻として降嫁させる意向を示します。三条天皇は皇子・敦明親王を皇太子にしたいので、こじれてしまった藤原道長との関係修復を考えたようです。

 道長もこの縁談に乗り気。『栄花物語』では、正室・隆姫女王を思って目に涙をためる頼通を一喝します。

道長:「男たる者、妻が一人だけで良いわけがない。愚かしいぞ。今まで子に恵まれていないのだから、とにかく子を作ることを考えよ。この皇女は子を産んでくださるだろう」

 頼通は病床に伏し、隆姫女王の亡き父・具平親王の怨霊が現れ、この話は破談に。この後、禔子内親王は頼通の弟・教通の妻となります。

悩ましい後継者問題 末っ子・師実で落着

 頼通は寛仁4年(1020)、隆姫女王の弟・源師房を養子にします。元服と同時に臣籍降下し、頼通が名付け親になります。頼通に実子ができた後も関係は良好でした。

 万寿2年(1025)、頼通の長男・通房が誕生。側室の子ですが、このときはほかに実子がなく、嫡男扱い。しかし、20歳で他界します。

              藤原頼通
┏━━┳━━┳━━┳━━┳━━┫
師実 忠綱 定綱 覚円 俊綱 通房

※参考:頼通の略系図

 また、別の側室・祇子が5男2女をもうけますが、男児は他家に養子に出したり、出家させたりしています。次男・俊綱は橘俊遠の養子。三男・覚円は出家させ、後に天台座主。四男・定綱は藤原経家の養子。五男・忠綱は藤原信家の養子。長久3年(1042)に生まれた六男・師実が頼通の後継者となりました。師実誕生から数年で長男・通房が早世したのです。

 また、頼通は弟・教通の子・信家を養子にし、後に五男・忠綱を信家の養子にしています。

道長死後しきりに右大臣・実資に相談

 治安元年(1021)、左大臣・藤原顕光が死ぬと、右大臣・藤原公季を太政大臣に格上げしてしまい、内大臣だった頼通が左大臣に就き、右大臣に大納言・藤原実資を昇格させます。こうして頼通、実資の協力態勢ができ、万寿4年(1027)12月、藤原道長が62歳で死去した後、頼通はしきりに実資に相談するようになります。

 「賢人右府」と呼ばれた実資は道長より9歳上ですが、90歳の長寿で、道長死後は頼れる相談相手だったようです。

「実資の意見通りに」丸投げ事案も多発

 藤原道長死去7日後、頼通が恒例行事の指示を出さないので「きっと、どさくさで忘れているのだろう」と噂になります。頼通と担当者の間では「やる、やらない」で意見が分れていました。藤原実資が人を介して頼通の決定を急かすと、丸投げの返答。

頼通:「実資の意見通りに天皇に奏上して決定せよ。自分のところに来て意見を言わなくてもよい」

 実資は気を回して関白・頼通を通して奏上する形で進めました。

 年末押し迫った時期にも年明けの節会について、天皇の秘書に「関白は、この件を右大臣・実資に伝え、実資の意見通りに決定してしまえとのおおせです」と言わせています。

前九年合戦勃発と地上の極楽浄土・平等院

 藤原道長の死から半年、長元元年(1028)6月、関東で平忠常の乱(1028~1031年)が勃発します。頼通は、平貞盛の曽孫・平直方を忠常討伐に起用しますが、平定できません。結局、源頼信が鎮圧し、清和源氏が関東に勢力を持つきっかけになります。

 平直方は頼通に仕えた武士で、平忠常は頼通の弟・教通と関係を保っていました。一方、源頼信は兄・源頼光とともに道長に仕え、道長四天王の一人に数えられた武士。摂関政治全盛期にも源平の武士は着々と力をつけていたのです。

          清和天皇
           ┃
          (略)
           ┃
          源満仲
 ┏━━┳━━━━━━┫
頼信 頼親(大和源氏) 頼光(摂津源氏)
┏┻━┳━━┓
頼基 頼清 頼義
 ┏━━━━┻━━━┓
義光(甲斐源氏) 義家(河内源氏)

※参考:清和源氏の略系図

姉・彰子の平癒願い大赦で戦闘停止

 前九年合戦(1051~1062年)では、源頼信の長男・頼義が陸奥守に就き、陸奥の有力豪族・安倍氏と戦います。永承7年(1052)に頼通の姉・彰子の病気平癒を祈願して大赦があり、軍事行動は停止されますが、最終的には源頼義が関東武士を率いて安倍氏を滅ぼします。この戦乱も武士台頭の大きな契機になります。

末法初年、宇治に創建された平等院

 頼通の栄華を象徴するのが平等院鳳凰堂(京都府宇治市)です。宇治は貴族の別荘地。道長の別荘・宇治殿を寺院に改めたのが永承7年(1052)創建の平等院です。この頃、末法思想が広がり、この年は末法初年と信じられていました。釈迦の死から2000年が経って教えが形骸化し、仏教が守られない時期とされるのが末法です。

 天喜元年(1053)に建立した平等院の阿弥陀堂は鳳凰堂と呼ばれ、地上に極楽浄土を再現しようとした建物です。周囲の浄土庭園は玉石を敷き詰めた緩やかな勾配で幽玄な世界観を演出。その後も頼通や一門によって法華堂、多宝塔などが建てられました。

 『扶桑略記』は「平等院は水石幽奇にして風流勝絶なり」と書き、『後拾遺往生伝』には「極楽の存在を信じたければ宇治の御堂(鳳凰堂)を礼拝すれば分かるだろう」とあります。

皇子恵まれず栄華に影 後三条即位で隠居

 頼通は治暦3年(1067)12月、病気を理由に関白を辞任しますが、後冷泉天皇からは引き続き政務全般の諮問に答えるよう命じられます。この任務も治暦4年(1068)4月に辞め、同母弟・教通が関白に就任します。一方、後冷泉天皇は同年3月に危篤となり、尊仁親王(後三条天皇)の即位が現実味を帯びてきます。直接的な藤原氏との外戚関係がない親王の即位は摂関政治の大きな転換点となります。

姉・彰子の意見に従い、弟に関白継承

 藤原教通は内大臣、右大臣、左大臣を歴任して頼通を支え、兄弟の関係は良好でしたが、次の関白職をめぐって少しこじれていきます。頼通は実子の右大臣・師実への政権委譲を考えますが、姉・彰子は道長の遺言を理由に弟への継承を主張します。

 治暦4年(1068)4月、大臣経験47年を経て教通が待望の関白に就任し、3日後に後冷泉天皇が崩御。宇多天皇以来、約170年ぶりに藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位しました。

晩年は宇治で過ごす 83歳の長寿

 頼通は従一位、摂政、関白、太政大臣と官位を極め、太皇太后、皇太后、皇后(中宮)の三后に準じた准三宮の待遇も受けました。臣下として最高の名誉です。

 晩年は宇治で過ごしました。延久4年(1072)に出家し、後に本格的な院政を始める白河天皇の即位も見届けます。延久6年(1074)2月2日死去。83歳の長寿でした。

死に際までもつれた関白をめぐる確執

 関白職をめぐる頼通、教通兄弟の駆け引きは死に際までもつれ、『古事談』にその逸話があります。

頼通:「約束通り、摂関を師実に譲るべきだ。私が生きている間に安心して見届けたい」

教通:「このことは私の一存では何とも申し上げられない。天皇のご意向をうかがわねば」

 後三条天皇は教通の関白辞任を許さず、頼通は恨みに思ったまま亡くなります。

 そして、承保2年(1075)、教通は死の間際、内大臣だった三男・信長に関白を譲ろうとします。このときは白河天皇に代わっており、中宮・賢子の泣訴で頼通六男・師実が関白に就きます。賢子は師実の養女でした。こうして関白職は頼通の子孫に継承されていきます。

おわりに

 藤原頼通は人の意見をよく聞き、性格も温和。「穏便な独裁者」でした。半面、有力社寺の要求に右往左往する場面もあり、全盛期だった摂関政治の幕を引いてしまいます。皇后とした娘に皇子が生まれなかった不運があり、あくどさ、強引さがなかったとも言えますが、政権を掌握していた半世紀の間に何か方法はあったはず。政治手腕は父・道長には遠く及ばなかったようです。


【主な参考文献】
  • 坂本賞三『藤原頼通の時代』(平凡社、1991年)
  • 服藤早苗『藤原彰子』(吉川弘文館、2019年)
  • 保坂弘司『大鏡 全現代語訳』(講談社、1981年)講談社学術文庫
  • 倉本一宏『藤原道長「御堂関白記」全現代語訳』(講談社、2009年)講談社学術文庫
  • 山中裕、秋山虔、池田尚隆、福長進校注・訳『栄花物語』(小学館、1995~1998年)

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  この記事を書いた人
水野 拓昌 さん
1965年生まれ。新聞社勤務を経て、ライターとして活動。「藤原秀郷 小説・平将門を討った最初の武士」(小学館スクウェア)、「小山殿の三兄弟 源平合戦、鎌倉政争を生き抜いた坂東武士」(ブイツーソリューション)などを出版。「栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会」のサイト「坂東武士図鑑」でコラムを連載 ...

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