「藤原彰子」藤原道長の長女 摂関政治支えた国母、紫式部ら登用
- 2024/06/18
藤原彰子(ふじわらのあきこ、988~1074年)は藤原道長の長女で、一条天皇の正室・中宮となります。後一条、後朱雀天皇の母「国母」として、道長やその長男・頼通の摂関政治全盛期を支えました。紫式部ら多くの女流文化人、歌人たちが彰子に仕え、優雅な貴族文化を発展させた時代でもあります。
彰子は87歳の長寿で、子や妹たちに先立たれましたが、孫の後冷泉、後三条天皇、曽孫・白河天皇即位も見届けました。武士台頭の時代まで生き抜いた生涯をみていきます。
彰子は87歳の長寿で、子や妹たちに先立たれましたが、孫の後冷泉、後三条天皇、曽孫・白河天皇即位も見届けました。武士台頭の時代まで生き抜いた生涯をみていきます。
紫式部だけじゃない華やかな女房たち
彰子は道長の第1子で、母は道長正室・源倫子(ともこ)。同母弟妹に、ともに関白まで上り詰めた道長長男・頼通(よりみち)、五男・教通(のちみち)、三条天皇中宮の次女・妍子(きよこ)、後一条天皇中宮の四女・威子(たけこ)、後朱雀天皇の皇太子時代の妃となった六女・嬉子(よしこ)がいます。12歳で入内、「一帝二后」で中宮に
長保元年(999)11月1日、彰子は12歳で一条天皇に入内(=妻として内裏に入る)します。天皇は20歳で、既に中宮(正室・皇后)がいました。道長の兄・道隆の長女である定子です。11月7日、彰子は女御(天皇の妻の身分の一つ)となりますが、同日、定子は第1皇子・敦康親王を出産します。 長保2年(1000)2月、彰子は中宮に立てられ、中宮の定子は皇后となります。同じ意味である「中宮」と「皇后」の呼び分けは、道隆が定子を中宮としたときに前例がありますが、道長は、定子が既に出家したことを理由にして、前代未聞の「一帝二后」を実現。天皇の正室は1人とする律令の規定に反し、皇后・定子と中宮・彰子が並び立ったのです。
一流歌人ズラリ 女房はドリームチーム
寛弘2年(1005)頃、彰子の女房として『源氏物語』を書き始めていた紫式部が起用されます。「女房」とは、現代の「妻」という意味とは違い、貴人に仕える女性です。皇后・定子は長保2年(1000)12月、24歳で崩御しますが、清少納言ら才女を女房とし、華やかな文化サロンを形成していました。道長には、彰子の周りも華やかにして一条天皇と彰子の関係を良好にし、最終的には彰子に皇子を産ませるという狙いがありました。
彰子のもとで、紫式部によって生み出された『源氏物語』の新作は、彰子の成長とともに一条天皇との関係を発展させるのに役立ったようです。また、紫式部以外にも多くの女流歌人が彰子に仕えました。
「百人一首」56~61番の6人は彰子に仕えた女房です。
・56番 和泉式部
・57番 紫式部
・58番 大弐三位(紫式部の娘)
・59番 赤染衛門
・60番 小式部内侍(和泉式部の娘)
・61番 伊勢大輔
ただ、彰子の女房は上級貴族の家からも集められ、実務能力に欠ける面はありました。
ライバル定子の遺児・敦康親王を養育
少し前後しますが、長保3年(1001)8月、彰子は定子の遺児・敦康親王の養母となります。実際には定子の末妹・御匣(みくしげ)殿が養育に当たります。御匣殿は一条天皇の子を懐妊しながら長保4年(1002)6月に死去。17~18歳だったようです。彰子に仕える立場で親王を養育していた御匣殿に一条天皇の愛が向けられ、まだ15歳だったとはいえ、中宮である彰子は複雑な心境だったかもしれません。母・倫子が懐妊 末妹・嬉子誕生
寛弘4年(1007)1月、母・倫子が道長六女・嬉子を出産。彰子は末妹誕生7日目の祝宴を主催し、産着などを贈りました。道長:「中宮よりこのような贈り物はめったにないことで、面目が施された。家から立たれた中宮が母のためにこのようなことをなさったというのは百年来、聞いたことがない」
『御堂関白記』に残る道長の本心ですが、一方では44歳の妻より、20歳になった彰子の懐妊を何よりも望んでいました。8月、急峻な山道の往復に18日間かけ、金峰山寺(奈良県吉野町)に参詣し、皇子誕生を祈願します。
おしっこ引っ掛けられ、道長大喜び
寛弘5年(1008)9月11日、彰子は一条天皇の第2皇子、敦成(あつひら)親王を出産。後の後一条天皇です。待望していた皇子誕生に道長は大喜び。『紫式部日記』によると、夜中でも未明でも乳母のところに来て、寝入っている乳母から取り上げ、首も据わっていない皇子を抱き上げます。おしっこを引っ掛けられても、これを喜ぶありさま。道長:「ああ、宮(皇子)のおしっこに濡れるとは嬉しいことだ。濡れた着物を火であぶる、これこそ念願かなった心地だ」
彰子は続いて寛弘6年(1009)11月25日に敦良親王を出産。後の後朱雀天皇です。
後一条、後朱雀、2代続けて天皇の母
寛弘8年(1011)6月、一条天皇が退位し、まもなく崩御。彰子は24歳で夫を失います。三条天皇が即位し、彰子の産んだ敦成親王が皇太子として扱われます。一条天皇の真意を知る彰子は、わが子より先に敦康親王を皇太子にしたかったのですが、父・道長は宮中工作の最中も彰子の御在所は素通りし、さっさと話を進めました。道長の側近・藤原行成は、彰子が父を恨んでいたと書き残しています。
うるさ型の実資がほめた賢后ぶり
長和元年(1012)2月、同母妹の妍子が三条天皇の中宮となり、彰子は皇太后に。この頃から彰子も成長した姿を見せるようになります。5月、一条天皇一周忌を前に5日間の法華八講を主催。法華経8巻を朝夕1巻ずつ読み、解説や質疑応答をします。通常4日間で終了しますが、丁寧に5日もかけたのは一条天皇への思いの深さでしょう。また、うるさ型の藤原実資の参加を喜んだことは人づてに本人に伝わり、実資を感激させています。
彰子:「あちこちに追従しない実資殿が今回の八講に日々参会くださるとは本当に喜ばしいことです」
長和2年(1013)2月には、彰子のもとに貴族が集まり宴会を開く予定が当日になって中止になります。
彰子:「最近、中宮(妹・妍子)がしきりに宴会を開き、参加者はその都度、負担になる。今はみな、父・道長に追従しているが、死後は批判するに違いない。中止すべきです」
当時の宴会は参加者が食料を持ち寄る形式。弟の頼通が道長と彰子の間を3回往復して調整しますが、彰子は許可せず、言い出しっぺの道長の顔に泥を塗った形です。これを知った実資は彰子の賢さを称えます。
実資:「賢后と申すべきである。感心、感心」
実資にこうした情報をもたらしたのは紫式部とみられます。立場上、彰子は身内以外と話すことは、あまりありませんが、紫式部ら取り次ぎ役女房を通して道長派以外の貴族にも支持を広げた可能性があります。
2人目の女院「上東門院」
長和5年(1016)、三条天皇が退位し、彰子の産んだ後一条天皇(敦成親王)が即位。道長は摂政に就きました。寛仁2年(1018)、後一条天皇が元服し、中宮に道長四女・威子を迎えます。彰子は太皇太后となり、三条天皇中宮だった妍子は皇太后に。太皇太后、皇太后、中宮の三后を彰子と同母妹で占めたのです。
万寿3年(1026)、彰子は39歳で出家。「上東門院」と呼ばれます。上東門院は道長邸・土御門第のこと。伯母・詮子「東三条院」に続く2人目の女院です。
この後、半世紀近くを「上東門院」として過ごします。出家の身といえども影響力は失っていません。むしろ、翌年の万寿4年(1027)、父・道長死去後は、後を継いだ頼通の姉として、そして、天皇の母「国母」として発言の重みは増していきます。後一条天皇の後を継いだのも彰子の第2子・後朱雀天皇。2代続けて計30年間、国母として後見します。
前九年合戦、曽孫・白河即位見届ける
長元9年(1036)、彰子はわが子・後一条天皇と妹で後一条天皇の中宮・威子に先立たれます。9歳で即位した後一条天皇は29歳での崩御。さらに皇位を継いだ後朱雀天皇も寛徳2年(1045)、37歳で崩御。彰子は58歳でした。この後は後冷泉天皇、後三条天皇を祖母として後見します。2人は後朱雀天皇の皇子です。
孫の後冷泉、後三条天皇にも先立たれ
寛徳2年(1045)に即位した後冷泉天皇は21歳。その生母・嬉子は彰子の末妹で、出産直後に死去し、彰子が引き取って愛育しました。乳母は紫式部の娘・大弐三位です。後冷泉天皇も44歳で崩御。即位前からの妃・章子内親王を中宮に、彰子の弟・頼通、教通のそれぞれの娘を皇后とし、中宮、皇后で3人も正室を持つという空前絶後の事態を招きますが、彼女たちとの間に皇子は誕生せず、内裏女房を母とする唯一の皇子は養子に出したので、皇太子はいません。
後を継いだのは異母弟・後三条天皇です。治暦4年(1068)、36歳で即位しますが、退位した翌年の延久5年(1073)、40歳で崩御。皇位に就いた2人の孫も彰子より早く他界したのです。
前九年合戦と弟・頼通の停戦
永承7年(1052)、彰子は大きな病気となり、その平癒を願う大赦で前年から始まっていた前九年合戦(1051~1062年)が一時停戦しました。既に清和源氏棟梁(とうりょう、リーダー)の源頼義が坂東武士を率いて統率力を発揮し、武士の台頭が目に見えてきた時代に入っていたのです。彰子は、延久4年(1072)の曽孫・白河天皇即位も見届け、承保元年(1074)10月3日、法成寺で87歳の生涯を閉じました。
おわりに
『大鏡』は彰子を「天下第一の素晴らしい母」と礼賛し、藤原実資も「賢后」と称えています。しかし、12歳で入内したときはおっとりとした少女で、定子のように才気煥発な姿を見せていたわけではありません。天皇の妻としては幼く、父・道長の操り人形に過ぎませんでした。それが夫・一条天皇や愛育した敦康親王の死を乗り越え、後一条、後朱雀天皇の母、そして後冷泉、後三条天皇の祖母として存在感を示し、60年近くを「国母」として君臨します。道長死後、政治を動かしたのは関白に就いた同母弟の頼通、教通ですが、優れた人心掌握術を発揮した道長の真の後継者は彰子と言ってもいいかもしれません。
【主な参考文献】
- 服藤早苗『藤原彰子』(吉川弘文館、2019年)
- 山中裕『藤原道長』(吉川弘文館、2008年)
- 倉本一宏『一条天皇』(吉川弘文館、2003年)
- 紫式部、山本淳子訳注『紫式部日記 現代語訳付き』(KADOKAWA、2010年)角川ソフィア文庫
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