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江戸幕府初期の超大物幹部・土井利勝にまつわる出生の謎
- 2024/12/09
2代将軍・徳川秀忠と3代将軍・家光に仕え、重臣として初期の徳川幕府を支えた人物の一人が土井利勝です。幕府の超大物幹部だった利勝には、「出生の秘密」があるのをご存じでしょうか。
土井利勝とは何者か
土井利勝は天正元年(1573)に浜松で生まれました。ただ、出生時のことはよく分かっていません。利勝は幼少の頃から秀忠付きの側近となり、慶長7年(1602)に下総小見川1万石の大名となります。秀忠が2代将軍になると、側近である利勝も次第に重要なポジションを占めるようになっていきました。
元和8年(1622)には、利勝にとって「目の上のたんこぶ」だった幕閣の実力者・本多正純が、宇都宮釣り天井事件の疑惑をかけられて領地を没収されました。この陰謀を企てたのは利勝だったと言われています。
最終的に利勝は下総古河16万石の大名となり、幕府役職の最高位である大老に就任。徳川幕府の基礎を築き上げた功労者となったのです。
利勝の謎「父親は家康?」
利勝が、徳川家後継者となる秀忠付きとなれたのも、幕府内で出世して実権を握れたのも、「出生の秘密」に理由があったとされています。利勝は、家康の家臣である土井利昌の子として育てられるのですが、利昌は実の父親ではなく、養父だったと言われています。では、誰が本当の父親なのか? 実は「徳川家康の子(ご落胤)」だったという説があります。
徳川家の公式記録である「徳川実記」にも書かれているので、利勝が存命中の頃から噂されていたものと思われます。もし本当なら、秀忠とは異母兄弟となるわけで、秀忠が厚い信頼を寄せた理由も分かります。
ちなみに利勝は、自身が家康に似ていると言われるのを嫌がっていたとされています。親の七光りで出世したと思われたくなかったのか、出生の秘密を洩らしたくなかったのか、利勝の真意は定かではありません。
利勝の謎「水野信元説も」
もう一人、利勝の父親ではないかと言われる人物がいます。家康の母親・お大の方の兄である水野信元です。信元は尾張と三河にまたがる領地を保有し、家康と織田信長の同盟関係を仲介したことで知られています。ただ、信長の命令(あるいは圧力)によって、家康の家臣に殺されてしまうのです。
信元が殺された時、利勝はわずか3歳。信元が実父であるならば、利勝と家康は従兄弟同士という血縁関係になり、顔や性格が似ていた可能性もあるでしょう。そこから「家康のご落胤」との噂が出ても不思議ではありません。
信元は、今川家に従属していた家康を敵方だった信長に引き合わせるなど、知略に長けた人物だったと言われています。のちに利勝が、本多正純との権力争いに勝った理由も、父・信元の「謀略家の血」を受け継いでいるであれば説得力があります。
おわりに
土井利勝は、幕府の初期から正保元年(1644)に72歳で亡くなるまでの一生涯、徳川幕府の重鎮の座を保ちました。利勝が失脚することなく、超大物幹部で居続けられたのには、「出生の秘密」が関係していたのかもしれませんね。- ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
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