「水野信元」は若き家康の良き相談役であった!

「水野」と言えば、天保の改革の水野忠邦が有名であるが、水野家が江戸幕府の中枢に入り込む礎を築いた水野信元はどちらかというとマイナーな存在であるようだ。

しかし、彼がマイナーなのは、いきなり歴史の表舞台から姿を消してしまったからであり、ぱっとしない武将であったからではもちろんない。数少ない史料が示す信元の人となりはどのようなものなのであろうか。

家督継承

水野信元の父は忠政であることがわかっているが、生年は不明である。

天文12(1543)年、忠政の死により水野宗家の家督を継承する。領地は尾張国知多郡東部・三河国碧海郡西部であったと伝わる。ちなみに徳川家康の生母となる於大の方は、信元の異母妹である。

松平氏と水野氏の関連略系図
松平氏と水野氏の関連略系図

信元の領国は、西は織田、東は松平や今川に挟まれた極めて厄介な位置にあった。このため、領国運営を誤れば即滅亡を招くという側面が強く、若い信元にとっては気の休まる時がなかったのではないか。

しかし、信元の手腕は若い時分から冴えていた。父は松平氏とともに今川についていたが、信元は早い時期に織田方へ鞍替えしたものと思われる。というのも、信元が水野宗家を継いですぐに、松平広忠に嫁いだ信元の妹の於大の方が離縁されているからである。

この松平広忠は徳川家康の父である。このことから、信元は家督を継ぐ前から、織田につくべきとの考えを持っていたのではないかと推察できる。


織田・今川・松平の三つ巴

当時の勢力図としては今川氏と織田氏が急速にその領土を拡大しつつあり、それに挟まれた松平と水野は難しい外交を迫られていた。

そもそもは、松平もそれなりの勢力を保っていたことが当時の地図からわかる。しかし、尾張の織田信秀は熱田の津島湊を押さえ、その経済力を利用することにより国力をつけ、領土の拡張を図り始める。

一方、今川義元は北条氏康との緊張状態が解消されるや、三河の従属を深める策に出た。そんな最中の天文18(1549)年、三河の松平広忠が暗殺されるという事件が起こる。結果として、三河は事実上今川の領土と化してしまう。

この三つ巴の争いの中、信元は着実に布石を打っていたのである。


尾張国 知多半島統一

少し時をさかのぼるが、織田信秀が三河侵攻を開始し、今川の関心が三河を巡って織田との争いに向かうようになってからというもの、織田と組んだ信元は知多半島の統一に乗り出していた。

まずは、松平広忠に離縁されて水野家に戻っていた妹・於大の方を、阿久居の坂部城主・久松 俊勝(ひさまつ としかつ)に嫁がせている。

また、新海淳尚(しんかいあつひさ)、榎本了円などの土豪を攻略し勢力を徐々に拡大するや、河和一帯を支配していた戸田氏の攻略に着手する。

手始めに一族でありながら、独立した勢力を保っていた常滑水野氏三代目守隆に娘を娶らせることによって、うまく取り込むことに成功したのである。

次に、布土城を築き、弟である水野忠分(ただわけ)を配置する。勢力を拡大しつつ、じわじわ圧力を加える戦法に戸田氏は疲弊し始め、次第に劣勢に追い込まれる。結果として、戸田氏は勢力を削がれてしまったのである。

この信元の采配、囲碁の名人のような見事な打ち手だと言っても過言ではないように思える。

さらに信元には追い風が吹く。

天文16(1547)年、今川に与していた戸田康光が、松平氏が今川に送った人質の竹千代を奪い織田方に寝返り、今川に滅ぼされるという事件が起きた。これに驚いた河和城主・戸田守光は、河和の領地を守るべく信元の娘と結婚し、水野家の婿養子となる。

戸田氏をも取り込んだ信元に大野一帯を領する佐治氏も逆らえず、遂に和解に応じたのだ。ここに信元の知多半島統一はほぼ完了する。

水野氏の要所マップ。色塗部分は尾張。

今川との対立

天文18(1549)年、織田は安祥城を今川に奪われる。これを機に劣勢となった織田信秀は今川義元と和睦する。

この際の条件の1つが「水野氏は今川氏に帰属すること」であったとされているため、信元は不本意ながら今川氏の傘下に入ったものと思われる。

ところが、天文20(1551)年に信秀が死去する。死因は流行り病であったという。信長が跡を継ぐと、今川義元は尾張への攻勢を強める。織田家が内紛に突入したからである。

最初、信長は大高城や沓掛城を今川方に奪われるなど苦しい戦況であったが、大給松平家(おぎゅうまつだいらけ)を離反させるなど徐々に巻き返しに転じる。

このころ、信元は織田方に転ずる。この絶妙すぎるタイミングを見ると、そもそも信元は機を見て織田方に寝返る腹積もりだったと考えてしまうのは私だけだろうか。


清洲同盟の仲介

三河を服属させた今川義元は、徐々に尾張への侵攻を強める。

永禄3(1560)年、2万を超える軍勢を率いて本格的に尾張を攻め始めた矢先、歴史は大きな転換点を迎える。桶狭間山の戦闘において今川義元が討ち取られてしまったのだ。

世に言う桶狭間の合戦である。

『尾州桶狭間合戦』(歌川豊宣 画)
『尾州桶狭間合戦』(歌川豊宣 画)

この合戦の際の信元の行動は不明であるが、戦場となった桶狭間付近は水野家家臣中山勝時の領地であったことは興味深い。

さらに、一番首の手柄を取ったのは一族の水野清久であるというから、水野家の株が上がったことは間違いないだろう。信元も岡部元信に攻略された刈谷城、そして重原城の奪還に成功するという手柄を上げる。

この後、信長と家康は清洲同盟を結ぶのであるが、『松平記』によると、この際に仲介役を務めたのは「水野信元」とされている。これは、織田家での信元の発言力が増していることを示しているとはいえないだろうか。

ところで、この時期信元の弟・忠重が信元の配下から離れて、家康の配下についたという。

これについて『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』や『寛政重修諸家譜』では兄弟の関係が悪化したためという記述があるが、本当にそうなのだろうか。

信元の行動を見ていると、今川の勢力が優勢でありながら織田についたり、一方では三河を平定した家康の相談役となり、三河一向一揆に家康が苦戦するや援軍を送ったりするなど、確かな人物眼を持っているように感じる。

信元が家康を高く買っていたのはもちろんのこと、織田に対してある種の危うさのようなものを感じ取っていたという可能性もある。

もしかすると、水野家の生き残り策として弟・忠重を家康の家臣としたのかもしれない。

佐久間盛信の讒言

永禄10(1567)年頃には家督を信政に譲った信元であるが、その後も姉川の合戦や三方ヶ原の合戦に参加し、武功をあげている。

天正3(1575)年の長篠の合戦に参加した頃の石高は24万石であったと『結城水野家譜』には記されている。

ところが同年末には順風満帆であったその状況が一変する。

信長に武田勝頼方の秋山信友に内通し、兵糧を横流しした嫌疑をかけられてしまうのである。信長の重臣・佐久間信盛の讒言だと言う。

この結果、信長の命を受けた家康が平岩 親吉(ひらいわ ちかよし)を刺客として差し向け信元・信政父子を誅殺したのである。

佐久間信盛は何をもってそのような讒言をしたのであろうか。というのも、信盛は謀略として讒言を用いるような武将ではないからだ。

思い当たることが1つある。

天正2(1574)年3月20日将軍足利義昭より、信元に御内書が送られたという。その内容は、「武田勝頼と協力し、信長を討て」と言うものであった。

信盛はこの事実を知り、讒言に至ったのではないだろうか。

実は、家康にも同様の御内書が届いていたのだが、信元は「外様衆」として幕臣に列せられていたため、事の重大さが違っていたのかもしれない。


あとがき

信元が誅殺された後の天正8(1580)年、武田への内通を讒言した佐久間信盛は信長から19条の折檻状を突きつけられ、高野山に追放される。さらに、信元が冤罪だったとして家康の配下にいた弟の忠重を当主に据えて水野家を再興したという。

佐久間信盛の追放も讒言によるものと言われているが、ここで意外な人物が浮かび上がってくる。

『寛政重修諸家譜』には以下のように記されている。

「明智光秀が讒により父信盛とともに高野山にのがる。信盛死するののち、右府其咎なきことを知て後悔し、正勝をゆるして城介信忠に附屬せしむ。」

要するに今度は光秀の讒言によって信盛が追放されたというのだ。

もっとも、『寛政重修諸家譜』は18世紀末の成立であり、一次史料でないことから内容を鵜呑みにするのは少々危険かも知れない。

しかしこれに関して興味深い記述がある。

何と、光秀の妻、煕子の母は水野信元の姪に当たるというのだ。

愛妻家の光秀にとって、信元をおとしいれた信盛は許しがたいものであった可能性はゼロではないだろう。つくづく、暗殺や讒言など「負の感情」に基づく行動は哀れな末路に至る最大の原因であるな、と思った次第である。


【参考文献】
  • 水野忠興『水野一族の光と陰』文藝春秋企画出版 2019年
  • 太田牛一『信長公記』 角川ソフィア文庫 2002年
  • 茨城県歴史館『下総結城水野家・水野家中吉田家小場家平井家文書目録』1980年
  • 『松平記―徳川合戦史料大成』日本シェル出版 1976年
  • 『新訂寛政重修諸家譜』続群書類従完成会1964年


※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。