「光る君へ」藤原道長と源明子が結ばれた訳

元服した一条天皇(「光る君へ」第13回 ”進むべき道”)
元服した一条天皇(「光る君へ」第13回 ”進むべき道”)

 大河ドラマ「光る君へ」第13回は「進むべき道」。永延元年(987)、藤原道長と源雅信の娘・倫子は結婚します。

 翌年、倫子は道長の子を宿しました。雅信の土御門邸には、僧侶が沢山召し集められて、読経・修法が行われたといいます(『栄花物語』)。勿論、子供の無事な出産を祈るためです。藤原兼家(道長の父)や、皇太后の詮子(道長の姉)からも見舞いの使者が次々とやって来たとのこと。祈祷の効果があったからでしょうか。倫子は大きな苦しみもなく、女児を出産します。これが長女・彰子(後の一条天皇の中宮)です。

源明子の略系図(戦国ヒストリー編集部作成)
源明子の略系図(戦国ヒストリー編集部作成)

 姫君ならば、将来は后(天皇の妻)となられるであろうということで、兼家は大層喜んで、慶賀の使者を遣わしたそうです。道長と倫子はとても仲睦まじかったと『栄花物語』(以下、同書と略記することあり)には記されています。

 その頃、道長の姉で皇太后の詮子は、源高明の娘・明子をお手元で養育、可愛がっておられました。源高明は醍醐天皇の皇子でしたが、源姓を与えられて臣籍降下。左大臣となりますが、藤原氏の陰謀により失脚(969年、安和の変)していた人物です。その娘・明子は叔父に当たる盛明親王(高明の弟)に養われていたこともありました。よって、明子は「宮の御方」と呼称されていました。

 同書によると、多くの公家が明子を手に入れようと競っていたとのこと。その中でも特にしつこい程に言い寄ってきたのが、道長の兄・藤原道隆だったようです。しかし、皇太后の詮子は「とんでもない」と道隆の要求を蹴っていました。ところが道長は、明子の女房たちと仲良くなり、ついには明子とも出来てしまうのでした。皇太后・詮子も「道長は軽薄な男ではないから」と遂に2人の仲をお認めになったようです。道長には倫子がいましたが、明子のもとにも足繁く通うようになったといいます。倫子はそれを少し不満には思ったようですが、大して気にもとめていなかったと同書にはあります。

 道長と明子が結ばれたのは、倫子との結婚の少し後と考えられていますが、そこに道長姉の詮子が介在していたと推測されます。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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