【新潟県】春日山城の歴史 大きく発展を遂げた上杉謙信の牙城

春日山城跡(新潟県上越市春日山町)
春日山城跡(新潟県上越市春日山町)
 「越後の虎」と呼ばれた上杉謙信の居城が、新潟県上越市にある春日山城です。その遺構の範囲は2キロ四方に及び、新潟県でも大きな部類に入る山城となります。

 春日山城には年間を通じて、23万人(2019年の統計)の歴史ファンが訪れますが、史料が少ないことから、城の歴史はあまり詳しくわかっていません。

 今回は諸説を交えつつ、戦国屈指の山岳要塞だった春日山城の歴史をご紹介していきましょう。

諸説ある春日山城の築城時期

 残された史料が少ないことから、春日山城の築城時期には2つの説があるようです。

長尾為景が築城したとする説

 まず確実な史料に現れるのは永正10年(1513)のこと。長尾為景(ながお ためかげ)が記した書状にはこう書かれています。

「上様春日山へ御登城候、当日先以返馬、御要害へ覃誥陣、(中略)今夕為景堀内ヘ奉移、明日者、向宇佐美在所可進陣分候、定此方之義可御心安候、万端取乱候間、早々啓候、恐々謹言」
(十月廿三日 長尾為景書状)

 これは為景が争乱を鎮圧する間、一時的に守護・上杉定実を春日山城へ移したことを示しています。

 また同時期に、福王寺掃部助宛て書状の中で「上様春日山御登城申候」と述べられており、すでに春日山城が機能していたことがわかりますね。

 ちなみに高野山清浄心院に伝わる「越後過去名簿」をひも解くと、「春日山」の記述は天文5年(1536)に初めて現れ、それ以降は頻繁に記録されています。

 こうしたことから、春日山城を築城したのは長尾為景という説が一般的となっているようです。

長尾高景が築城したとする説

 もう一つは、江戸時代後期に編纂された『群書類従』に収録されている「長尾系図」を根拠にしているもので、南北朝時代に長尾高景(ながお たかかげ)が築き、府中の守護所に対する詰め城として機能したという説です。

 越後では南北朝の争乱が続いており、守護・上杉氏を支える立場にある高景が、春日山に要害を築いたとしても不思議ではありません。むしろ蓋然性があるように感じます。

 春日山城の築城時期には諸説あるものの、ここでは高景が築いたという前提で、城の歴史をひも解いていきましょう。

春日山城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

長尾為景によって改修された春日山城

 長尾氏は桓武平氏であり、高望王の孫・平良兼(たいら の よしかね、876?~939)が相模国へ移った時に村岡氏を称しました。やがて景明の代に同国長尾の地に住んだことから、長尾氏を名乗ったといいます。

 そして鎌倉時代、三浦氏が宝治合戦(1247)によって滅亡すると、その家臣である長尾景茂も討たれてしまいました。長尾一族は一時的に所領を失うも、その後は上杉氏の家臣となって関東各地へ分流し、白井長尾氏・足利長尾氏・総社長尾氏などへ分かれていきます。

 さて、越後へ移った長尾氏は白井長尾氏の支流ですが、南北朝時代に活躍した長尾景忠(かげただ)は、上杉氏を支えつつ、北朝方として戦いました。のちに関東へ戻って上野・白井城を本拠とし、山内上杉氏の家宰となっています。

 そして景忠が去ったあと、越後の管理は弟・景恒(かげつね)に任されました。景恒は次男・高景を三条城に、三男・景春を蔵王堂城に置き、のちに高景が守護代職を譲られています。

       長尾景恒
     ┏━━┫
     景春 高景
     ┏━━┫
     景房 邦影
     ┃  ┃
     頼景 実景
     ┃
     重景
     ┃
     能景
     ┃
     為景
  ┏━━┫
  景虎 晴景
(上杉謙信)

※参考:越後長尾氏の略系図

 永和4年(1378)、越後守護・上杉憲栄が28歳で出家して遁世すると、兄・上杉憲方の子である竜命丸(のちの上杉房方)が守護となりました。そして長尾高景は鉢ヶ峰城(春日山城)を築き、竜命丸を支えたといいます。

 高景のあと、邦景(くにかげ)、実景(さねかげ)と続きますが、失脚したことで守護代職は、従兄弟の頼景(よりかげ)に与えられました。ただし、跡を継ぐべき嫡男・重景(しげかげ)が亡くなったことで、孫の能景(よしかげ)が守護代職を継いでいます。能景は武略に優れた人物だったものの、永正3年(1506)に般若野の戦いで敗死。嫡男の為景が後継者となりました。

 為景は父と同じく武勇に秀でていたのですが、かなりの野心家でもあったようです。守護・上杉房能と不和となって合戦に及び、自らの主君を自害へ追い込みました。さらに房能の兄・上杉顕定が関東から乱入してくるものの、これを迎え撃って、逆に顕定を討ち取っています。

 こうした戦乱の中、為景は享禄2年(1529)に春日山城を大々的に改修しました。従来までの小さな要害は姿を変え、越後の支配者に相応しい城郭へ生まれ変わります。おそらくこの時期に、春日山城の基本的な構造が出来上がったのではないでしょうか。

 やがて為景は、同族・国衆らの反発を買うことになり、嫡男・晴景へ家督を譲ったあとに病没しました。さらに反発勢力の台頭で越後は大いに乱れ、7歳の虎千代(のちの上杉謙信)が、為景の遺骸を護衛せねばならない状況だったといいます。

謙信の時代に完成した春日山城

 天文17年(1548)、兄・晴景に代わって長尾景虎が守護代職を継ぎました。そして2年後に守護・上杉定実が死去したことで、事実上の越後国主となっています。また、北条氏に追われた関東管領・上杉憲政を迎え入れると、その名跡を譲られて上杉姓を称し、のちに出家して「謙信」と号しました。

春日山城跡の謙信像
春日山城跡の謙信像

 さて、謙信は春日山城へ入城して以来、防御力の強化に取り組みました。出陣の合間を見ながら改修・増築が繰り返され、徐々に現在の春日山城の姿へ変貌を遂げていったのです。

 峻険な地形に加え、曲輪は実に200以上を数え、まさしく難攻不落の城となりました。武田信玄が春日山城へ攻め寄せるという噂が立った時、謙信は自信満々で「普請さえ良ければ大丈夫だ」と言い切ったとか。そのくらい堅固な要塞だったのでしょう。

 謙信時代の春日山城は、山頂を中心に本丸・天守・二の丸・直江屋敷といった曲輪が配置されています。ただし、これらの名称は江戸時代の絵図に基づくもので、便宜的に名付けられたに過ぎません。春日山城の本丸エリアを「実城」とする説も多いのですが、これは謙信や景勝の屋敷があった場所を示す言葉です。謙信や景勝が本丸で暮らしていたかどうかは確定できないでしょう。

春日山城の絵図(出典:wikipedia)
春日山城の絵図(出典:wikipedia)

 また、春日山城一帯の地名や俗称を拾っていくと、少し不思議なことに気付きます。ここで城の東方山麓を見てみましょう。

 まず御館川上流の愛宕谷には「上屋敷」なる地名があり、すぐ近くには「中屋敷」があります。さらに隣接するように「御屋敷」があることから、おそらく城主の居館、あるいは重臣の屋敷があったに違いありません。そして春日山神社が建つ老母屋敷と御屋敷の中間は、「天所」と呼ばれているのです。

 これら「屋敷」と名が付く曲輪群一帯を、地元では古くから「城山」と呼んでおり、城そのものがそこにあったような印象を受けます。

 また、大正年間に発行された『頸城郡誌稿』の絵図によれば、老母屋敷一帯は「謙信、景勝、その後堀久太郎屋敷」となっており、この付近に大きな建造物があったとしても不思議ではありません。

 そうなると、これらの曲輪群が城の中心だったと考えるべきでしょう。ただし山頂の本丸は「御天上」とも呼ばれており、麓の天所と並んで「天」の付く名称が2つ存在するのです。

 おそらく古い時代の春日山城は、東麓の愛宕谷を含む狭いエリアに限られていたのかも知れません。やがて戦国時代を迎えると、防御の必要性から城域が拡大していき、為景もしくは謙信の時代に、山頂を本丸とした山城が完成したのでしょう。

 春日山城は時代の流れとともに姿を変えていった。そんな可能性が高いのです。

戦国の終焉とともに役目を終える

 天正6年(1578)、関東出陣を目前にした謙信が亡くなりました。その後、上杉氏の跡目をめぐって景勝・景虎の養子二人が争い、御館の乱が勃発します。

 この時、景勝は春日山城へ入り、一方で景虎は府中の御館を拠点としました。やがて景勝が勝利して景虎を討ち、国主の座に就いています。ちょうど北東端の東城砦から御館川へ至るエリアには、総延長1.2キロの惣構(そうがまえ)が構築されており、堀と土塁で城の防御性を高める機能がありました。これは御館の乱の前後に景勝によって築かれたのだとか。現在はその一部が復元されています。

※参考:春日山城跡のドローン紹介動画(上越観光Navi)

 景勝は20年間を春日山城で過ごし、慶長3年(1598)に会津へ移封となりました。そのあとに入城したのが堀秀治で、今も残る監物堀(一部は復元)は、その時に作られたものです。

 しかし、秀治が越後へ入って2年後、北東にある福島城の普請が始まり、堀忠俊の代に本拠を移しました。その際に春日山城は廃城となり、その歴史に終止符が打たれたのです。

 ちなみに春日山城が廃された理由には異説があり、実は徳川家康が発した「山城停止令」によるものだったとか。江戸時代中期に書かれた「越後野誌」にはこのような記述があります。

「慶長十二年、駿府城造営これあり、東照神君御移住、天下一統山城停止によりて、同年堀秀治春日山城を退去し、福島城を築き移住す」

 また、上越市内の本誓寺に伝わる御由緒には、以下のように記されており、全国規模の山城停止令によって、春日山城が廃城になったことがうかがえます。

「堀久太郎秀治領主の時分、山城停止にあいなり候よし」

 まだ一次史料で確認されていませんが、江戸時代初期に存在していた山城の多くは、もしかすると家康の鶴の一声によって、廃城になったのかも知れません。

おわりに

 春日山城は、紛れもなく戦国を代表する山城です。誰にでもわかりやすく整備された城で、曲輪や土塁、虎口や堀切、サイフォンの原理を利用した井戸など、戦国時代ならではの遺構がたくさんあります。

 また春日山神社から登って尾根筋を歩き、そのまま大手道を下るコースを取れば、主要な曲輪を効率よく巡ることができるでしょう。初心者でも、コアな歴史ファンでも楽しめるのが、春日山城の魅力なのです。

補足:春日山城の略年表

出来事
南北朝時代長尾高景が鉢ヶ峰城(春日山城)を築く。
享禄2年
(1429)
長尾為景によって、春日山城が改修される。
天文5年
(1536)
為景が隠居し、嫡男の晴景が跡を継ぐ。
天文17年
(1548)
兄・晴景に代わり、長尾景虎が守護代職を継ぐ。これ以降に春日山城が大改修される。 
天正6年
(1578)
上杉謙信が死去。同年、御館の乱が勃発する。
天正7年
(1579)
上杉景勝が勝利し、上杉氏の後継者となる。
慶長3年
(1598)
景勝が会津へ移封となり、代わって越前から堀秀治が春日山城へ入る。
慶長5年
(1600)
春日山城に代わる福島城の普請が始まる。
慶長12年
(1607)
堀忠俊が福島城へ移り、春日山城が廃城となる。
明治34年
(1901)
山麓に春日山神社が建立される。
昭和6年
(1931)
毘沙門堂が再建される。
昭和49年
(1974)
東城砦周辺が国の史跡に追加指定される。
平成18年
(2006)
日本100名城に選定される。


【主な参考文献】
  • 福原圭一・水澤幸一『甲信越の名城を歩く 新潟編』(吉川弘文館 2016年)
  • 藤崎定久『日本の古城3 北海道・東北・関東・甲信越編』(新人物往来社 1971年)
  • 小林祐一『日本名城紀行 東日本編』(メイツ出版 2007年)
  • 西股総生『歴史REAL 山城を歩く』(洋泉社 2018年)
  • 上越市教育委員会『史跡春日山城跡保存管理計画書』(1980年)

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  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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