若狭最大級の山城!おびただしい曲輪の連絡網を備えた「後瀬山城」の歴史について

帯刀コロク
 2020/12/10

後瀬山城本丸跡(出所:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E7%80%AC%E5%B1%B1%E5%9F%8E" target="_blank" rel="noopener noreferrer nofollow">wikipedia</a>)
後瀬山城本丸跡(出所:wikipedia

古代、朝廷に海水産物を中心とした貢進を行った国々を、「御食国(みけつくに)」と呼ぶことがあります。 豊かな海の幸は内陸のヤマトにとって憧れであり、貴重な恵みであったのでしょう。

現在の福井県の一部にあたる「若狭国」も、そんな御食国のひとつでした。中世以降、その若狭国守護・武田氏が拠点としたのが「後瀬山城」です。

若狭湾へと至る入り江を山頂から望む、海に開かれた城でもあり、若狭国最大級の規模を誇っていました。 今回はそんな、後瀬山城の歴史について概観してみましょう。

後瀬山城とは

後瀬山城は、現在の福井県小浜市に所在した山城です。

標高約168メートルの後瀬山山頂に主郭を設け、城域は南北約500メートル・東西約350メートルという規模を誇りました。

削平した山頂部に備えられた主郭は南北約90メートル・東西約30メートルで、北側と西側を中心に曲輪を配置。110箇所というおびただしい数の曲輪と、52条にもおよぶ堀切や竪堀の存在が確認されています。

現在の空印寺および小浜小学校のあたりには城館があり、南北約120メートル・東西約110メートルの敷地に二重の堀を備えるという、強固なものでした。

後瀬山城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

築城は大永2(1522)年、若狭国守護の武田元光によるものとされ、永禄11(1568)年に朝倉義景の侵攻を許して当代・武田元明が拉致されるまで、後瀬山城は武田氏の拠点でありました。

天正元(1573)年、若狭を拝領した丹羽長秀が後瀬山城主に着任。以降、天正15(1587)年に浅野長政、文禄2(1593)年に木下勝俊がそれぞれ城主となっています。

慶長5(1600)年、最後に城主となったのが京極高次でしたが、翌年には小浜城の築城が開始されたことにより後瀬山城は廃城となりました。

昭和62(1987)年から翌年にかけて発掘調査が実施され、曲輪・堀切・竪堀などの遺構が確認されました。また、二の丸の御殿跡からは庭園遺構や茶器なども発見されています。

後瀬山城は平成9(1997)年に国の史跡に指定、そして平成27(2015)年には日本遺産・海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群~御食国(みけつくに)若狭と鯖街道~の構成文化財として認定されました。

巧みな曲輪間の連絡通路、谷の横道

後瀬山城が特に西側の防御に重点を置いた構造であることは先述のとおりですが、これは敵対関係にあり、度々確執を招いてきた丹後の一色氏への防備を想定したものと考えられています。

また、北東側連郭の西側には、曲輪と曲輪を結ぶような連絡通路が設けられている点が特筆されます。 これは谷の横道と呼ばれ、相互の情報伝達に加えて寄せ手への射撃も可能とする設備でした。

この構造は山城としては非常に珍しいもので、近代戦における塹壕のような役割をイメージさせます。おびただしい数の曲輪に迅速に命令を伝達し、なおかつ各守備隊からの報告・連絡網を統括する要となったものでしょう。

また、二の丸御殿の発掘成果から庭園を含む茶の湯の設備があったこともわかり、若狭武田氏が先進の文化・文物に精通した国主であったこともうかがえます。

茶の湯に関わる作法の習得や、名器と呼ばれる茶器などの所持は当時の武将にとって大きなステータスであり、都との物流網が発達していたことの証拠のひとつでもあります。

まとめ・略年表

戦国期までに盛んに造営された山城でしたが、政庁機能を必要とするような場合は別個に館を築くこともありました。 立地が峻嶮であるほど城としての防御機能は高まりますが、政治上の実務には利便性の面で適していなかったためです。

そうして徐々に近世城郭へと推移していくなか、後瀬山城は中世的な要塞と政庁両方の機能を併せもつ最後の例のひとつであったといえるでしょう。

※参考:略年表
大永2年
(1522年)
若狭国守護・武田元光により築城
大永7年
(1527年)
武田元光が京都桂川の戦いで敗退
天文元年
(1532年)
国内防衛の不備を踏まえ、元光が出家
天文7年
(1538年)
元光の子・武田信豊が当主に
同  年信豊に反発した有力被官・粟屋元隆が反乱
天文11年
(1542年)
信豊が河内太平寺合戦で三好長慶に敗北
天文21年
(1552年)
元被官の粟屋右馬允が若狭を攻撃。信豊は敗北
永禄元年
(1558年)
武田義統が当主に
同  年被官の粟屋氏・逸見氏らの反乱を、越前朝倉氏と共同で撃退
永禄10年
(1567年)
義統死去。武田元明が当主に
永禄11年
(1568年)
越前の朝倉義景が後瀬山城に侵攻、元明が越前に拉致され武田氏の若狭支配が終焉
天正元年
(1573年)
丹羽長秀が若狭を拝領、後瀬山城城主に
天正10年
(1582年)
明智光秀に与した元明が自害。若狭武田氏が滅亡
天正15年
(1587年)
浅野長政が城主に
文禄2年
(1593年)
木下勝俊が城主に
慶長5年
(1600年)
京極高次が城主に
慶長6年
(1601年)
雲浜城(小浜城)築城開始により、後瀬山城は以降廃城に
昭和62年
(1987年)
後瀬山城の発掘調査を実施、翌年まで継続
平成9年
(1997年)
国の史跡に指定
平成27年
(2015年)
日本遺産の構成文化財として認定

【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 『歴史群像シリーズ 戦国の山城』 全国山城サミット連絡協議会 編 2007 学習研究社
  • 『越前及若狭地方の史蹟』 上田三平 1933 三秀舎
  • 小浜市HP 後瀬山城跡
  • 文化庁 文化遺産データベース 後瀬山城跡
  • 文化庁 日本遺産ポータルサイト 海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...

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