「光る君へ」藤原道長が兄・道隆の取り決めに反発して実行したあること

「光る君へ」第15回 「おごれる者たち」道長と伊周の弓比べのシーン
「光る君へ」第15回 「おごれる者たち」道長と伊周の弓比べのシーン

 大河ドラマ「光る君へ」第15回は「おごれる者たち」。藤原道隆の栄華が描かれました。

 藤原兼家の生前、関白と氏長者を譲られたのは、嫡男で内大臣の藤原道隆でした(道隆はその後、すぐに摂政となります)。道隆は当時、38歳。正暦元年(990)、兼家は62歳で死去し、道隆体制が本格的にスタートします。道隆の娘・定子は、同年正月、一条天皇の女御として既に入内していました。その定子の立后が同年10月に行われ、彼女は中宮となります。

※参考:藤原兼家・道隆・道長らの略系図(戦国ヒストリー編集部作成)
※参考:藤原兼家・道隆・道長らの略系図(戦国ヒストリー編集部作成)

 中宮大夫(中務省に属し、中宮についての事務を司った中宮職の職員)に任命されたのは、道隆の実弟の藤原道長でした。これは兄・道隆の取り決めだったと思われますが、道長は今回の人事が不服だったようで「誠に面白くないことだ」と中宮のもとへ参じなかったと言われています(平安時代の歴史物語『栄花物語』)。

 さて、政権の頂点に立った道隆は、程なくして内大臣を辞職しますが、その跡に滑り込んだのは、道隆のもう1人の実弟・藤原道兼でした。道兼は正暦5年(994)には右大臣にまで昇進しています。その際、内大臣は空席となるのですが、そこに座ったのは、道隆の嫡男・藤原伊周でした。ちなみに大河ドラマ「光る君へ」では、伊周を俳優の三浦翔平さんが演じています。

 伊周の出世は、父・道隆が摂政に就任した直後から始まっていました。17歳という若さで蔵人頭(天皇の側近く仕え、宮中の事務や行事などを扱う蔵人所の長)に抜擢されているのです。翌正暦2年(991)、伊周は参議(大納言や中納言に次ぐ要職)になっています。翌年(992)には権大納言、正暦5年には前述したように内大臣にまで昇るのでした。これは叔父・道長をも凌ぐ昇進です。これも全て、父・道隆が権力の頂点に立っていたことに由来しているでしょう。道隆は自身の後継者として伊周を出世させていったのでした。

 この時、道長はどのような想いでいたでしょうか。前掲の『栄花物語』に記された逸話のように不満を募らせていたのか、それとも諦観していたか。いずれにせよ、兄・道隆の政権がこの先も長く続いていれば、道長が飛び抜けて出世することはなかったと推測されます。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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