「光る君へ」藤原伊周が太宰府に流された ”3つの大罪” とは?

 大河ドラマ「光る君へ」第20回は「望みの先に」。長徳2年(996)1月、故・藤原為光の屋敷で遭遇した花山法皇と、藤原伊周・隆家兄弟(故・藤原道隆の子息)。この両者の従者間で闘乱が起こり、法皇に従っていた童子2人が殺され、首を持ち去られるという衝撃的事件が勃発します。実際に闘乱に及んだのは、隆家の従者という説もあります。

 時に一条天皇の母・詮子(藤原道長姉)は病となっていましたが、3月28日頃になると、病はある者による呪詛ではないか、厭物(他人を呪う物)が見つかったという噂が聞かれるようになるのです。更には4月1日になると、伊周が道長(道隆の弟)を呪詛していたことが奏上(天皇に言上)されるのでした。

 これらのことは真偽不明のことではありましたが、4月24日、伊周・隆家兄弟の処分が決まります。伊周は太宰権師、隆家は出雲権守とするというのが処分の内容でした。現代人から見たら「それが罰になるの?」と思われるかもしれませんが、これは左遷・配流であり、伊周・隆家にとっては痛恨だったのです。伊周らは、花山法皇を射たこと、詮子を呪詛したこと、道長を太元師法(密教の呪術)で呪ったことが罪名とされました。

 しかし、花山法皇を射たとは言っても、意図的に射たわけではありませんでした。闘乱のなかで、法皇がおられる輿に矢が放たれただけであり、法皇を殺傷する意図はなかったと考えられています。道長に行われた太元師法は、朝廷でのみ行うことができる呪法であり、臣下が行うことはできませんでした。それを伊周が行ったということで罪に問われたのです。

 さて、配流の命令が下っても、伊周らはすぐに配所に向かうことをしませんでした。1ヶ月ほどは病を理由にして都にいたのです。伊周が太宰府に着いたのは、同年12月のことだったのです。かつて、藤原時平の讒言により太宰府に流された菅原道真は、都に戻ることなく、配所で亡くなりました。伊周の運命や如何にというところですが、彼は幸運にも大赦により、翌年(997年)に帰洛することになります。しかし、中関白家(藤原道隆を祖とする一族の呼称)の衰退を挽回することはできませんでした。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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