【京都府】淀城の歴史 徳川によって築かれた京都守護の城
- 2024/10/30
淀城といえば、豊臣秀吉の側室・淀殿が過ごした城で知られますが、徳川の世になって新たな淀城が築かれています。今回は新旧ふたつの淀城をご紹介しつつ、その歴史をひも解いていきましょう。
中世に築かれた淀古城
一般的には、16世紀初めに築かれ、秀吉によって改修された城を「淀古城」、そして江戸時代初期に徳川氏が築いた城を「淀城」と呼称しています。現在の淀は京都市伏見区に属し、宇治川と桂川に挟まれた地域です。古くから洪水が多かったため、人工的な土地改変が繰り返されてきました。かつては桂川・木津川・宇治川が合流し、東の巨椋池の出口にあった中州の周辺が「淀」と呼ばれていたそうです。川が集まって流れが淀んでいたことから、その地名になったといいます。
平安時代前期には、すでに淀が「津」として機能しており、西国からの物資は淀津を経由して平安京へ運び込まれ、そこで働く人々が暮らしていたと推測されています。また、大同5年(810)に起こった薬子の変に際して、屯兵が置かれるなど、淀は有事に際して都を守る前線でもありました。
中世になると、淀魚市で魚介類が売買されるほか、米や塩、木材などの取引が盛んとなり、大変なにぎわいを見せたそうです。
さて、淀城が史料上で確認できるのは16世紀初めのこと。『細川両家記』や『実隆公記』によれば、永正元年(1504)、細川政元に反旗を翻した薬師寺元一が占拠した城とされています。三川の合流点北岸に築かれたと推測され、山城守護代の守護所を引き継ぐ形で、城が構築されたのでしょう。
次いで永禄2年(1559)には、管領・細川氏綱、続いて岩成友通が入城した記録があります。一説には織田信長が上洛した際、三好三人衆の抵抗拠点になったとされ、天正元年(1573)には、足利義昭に味方する武士たちが立て籠もったそうです。
秀吉によって改修され、淀殿が移り住む
天正10年(1582)に起こった本能寺の変後、淀城は明智光秀の砦として利用されました。やがて山崎の戦いを経て、羽柴(豊臣)秀吉の支配下に置かれたといいます。さて、側室の茶々が懐妊したことで、秀吉は産所とするべき場所を物色しました。そこで淀にあった古い城を改修することを決定。程なくして工事が始まっています。ちょうど大坂城と聚楽第を結ぶルート上にあり、何かと利便性が良かったのでしょう。
当時の淀古城がどのようなものだったのか?史料が残っていないため、ほとんどわかっていません。ただし秀吉の動静を伝える『駒井日記』によれば、淀古城には天守が存在したようです。
天正17年(1589)3月、完成した淀古城に茶々が入城し、5月には鶴松が誕生しました。こうした経緯から茶々は「淀殿」と呼ばれるようになったのですが、彼女自身は手紙の中で「茶々」を称していますし、秀吉も「淀の者」と呼ぶなど、淀殿の名前に関しては不明な点が多いのです。
同年9月、淀殿と鶴松は淀城を離れ、大坂城へ入りました。実質的には半年もいなかったわけで、あくまで淀城は産所としての扱いだったのでしょう。
さらに文禄4年(1594)、伏見城の築城が計画されるに伴い、淀古城は破却されました。その資材は伏見城へ移され、淀に集約されていた津としての機能も、伏見へ移転したといいます。
幕府の命で築かれた新しい淀城
やがて秀吉が亡くなり、関ヶ原の戦いを経て徳川の世になると、淀に新しい城が誕生します。元和9年(1623)、伏見城の廃城が決定すると、それに代わる京都守護の城が必要となりました。そこで幕府は、松平定綱に新城を築くよう命じたのです。淀古城は宇治川の北岸に築かれましたが、新しい淀城は三川合流点の中州が選ばれました。寛永3年(1626)6月に大御所・徳川秀忠、8月には秀忠と現将軍・徳川家光が淀城へ入っており、すでに主要な御殿や建造物が完成していたと考えられます。
淀城の構造ですが、宇治川や巨椋池の流れを引き入れて水堀となし、城の内外を二重三重にめぐっていました。北寄り中央には本丸と天守台、二の丸などがあり、これを内堀・中堀が囲んでいたようです。今も残る石垣と堀は、本丸跡と内堀の一部となります。そして南には内高嶋、東には東曲輪や魚市などが配されました。京都と大坂を結ぶ大坂街道は、城下の東側を通っていたようです。
ちなみに幕府は天守の移築について、かなりややこしい方策を取っていました。当初、廃城となる伏見城天守を淀城へ移す計画があり、天守台もそのサイズに合わせて築造されたのですが、急遽、伏見城天守が二条城へ移築されることになりました。
代わりに二条城天守を淀城へ移す話が持ち上がり、実際に移築されたのですが、どうも天守のサイズに比べて天守台が広すぎたようです。そこで余った四隅に二重櫓を4基設け、何とか体裁を整えたのだとか。
また、伝承によれば、二条城から淀城へ移された天守は、もともと豊臣秀長が築いた大和郡山城の天守だったそうです。木造建築に用いる良材が手に入りにくい当時、このような天守のシャッフルが頻繁に行われていたのでしょう。
城下町が整備され、発展の礎となる
寛永10年(1633)に松平定綱が美濃大垣へ転封になったあと、淀藩主として入ったのが譜代の永井尚政でした。これは将軍・徳川家光の上洛を計算に入れた措置であり、京都周辺で大名の配置換えを行うことで、畿内支配の強化を目指したのでしょう。さて淀城へ入った尚政は、まず洪水対策と城下町の整備に取り掛かりました。寛永14年(1637)から向こう2年間を、木津川の付け替え工事に費やし、さらに家臣団屋敷と新町の開発を進めていきます。
寛永16年(1639)、宇治川に淀小橋を架けて、城内町と城外町の往来を容易にし、さらに木津川に淀大橋を架橋したうえで、街道筋を整備していきました。淀城の城下町は、城内の3町、城外の納所町・大下津町・水垂町の計6町から成り、江戸時代中期には4千人以上の人口を数えたといいます。
それに加えて東海道に面する4町については、石清水八幡宮の神役を務める由緒から、地子免除とされていました。つまり無税ですから、ますます淀の周辺地域は栄えることになります。おそらくこの時期に、淀が発展する基礎が出来上がったのでしょう。
また豊臣時代に失われた津としての機能も、江戸時代に復活しています。淀二十石船の母港として、あるいは過書船や伏見船・高瀬舟などの寄港地として、陸運・水運の一大拠点となりました。とりわけ淀城外にある2基の大きな水車は、のどかな光景の一幕として有名だったそうです。
寛文9年(1669)、2代にわたって淀藩主を務めた永井氏が丹後宮津へ移り、代わって石川憲之が伊勢亀山から入封しました。その後、淀城のあるじは戸田氏・大給松平氏と続き、享保8年(1723)に稲葉正知が10万石で淀藩主となっています。
これ以降、藩主が代わることなく幕末まで続いていきました。ただし五層の威容を誇った天守は、宝暦6年(1756)に落雷で焼失し、再建されないまま現在へ至っています。
幕末、そして明治以降の淀城
幕末を迎えた頃、藩主・稲葉正邦は二度も老中を務めるなど、幕府内で重きを成していました。そのため藩内の穏健派と軋轢が生じるようになり、不協和音が続いていたようです。将軍・徳川慶喜による大政奉還ののち、慶応4年(1868)に鳥羽・伏見の戦いが始まりました。折しも正邦は江戸藩邸にいて、藩兵のみが旧幕府軍に加わっています。
ところが敗北を重ねた味方が退却してきた時、淀城の門は固く閉ざされ、旧幕府軍将兵の入城を拒否するという事態が起こりました。実は、藩内穏健派と新政府側との間で密約が成立しており、正邦がまったく関知しないまま事が運んでいたのです。立場をなくした正邦は老中を辞任し、結局は新政府へ恭順するしかありませんでした。
明治4年(1871)、廃藩置県によって淀藩は淀県となり、同時に淀城も廃城となります。明治時代を通じて実施された河川付替え・改良工事によって、周囲の景観は様変わりし、淀裁判所建設計画に伴って大部分の石垣が解体されました。
また桂川の西岸にあった与野神社は、淀川修築工事で移転が計画され、明治35年(1902)に淀城本丸跡へ遷宮されています。さらに明治43年(1910)には、大阪天満と京都五条を結ぶ京阪電気鉄道が開通。線路が敷かれたことで、ほとんどの堀がこの時に消滅しています。
そして現在、淀城跡公園として本丸及び天守台の石垣、内堀の一部が残され、在りし日の淀城の姿を伝えているのです。
おわりに
数々の歴史の舞台となった淀城ですが、今では石垣や堀の一部しか残っておらず、往時を偲ぶには少し寂しいかも知れません。たしかに淀城周辺には大きな河川が集中しており、洪水被害が及ぶかも知れない地域です。防災のためには遺構の消滅もやむを得ない事情があったのでしょう。しかし近い将来、京阪電鉄の高架化に伴って、淀城跡公園の再整備計画が持ち上がっています。それは石垣や護岸を整備し、かつて「水の城」だった淀城のイメージを復活させるというもの。あるいは水車を復元したり、豊かな植栽を行うことで、四季の景観を楽しめる広場になるそうです。
今後の淀城がどう変わっていくのか、楽しみにしたいと思います。
補足:淀城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
永正元年 (1504) | 摂津守護代・薬師寺元一が淀城を占拠し、細川政元に謀反を起こす。 |
永禄2年 (1559) | 管領・細川氏綱、次いで三好三人衆・岩成友通が淀城へ入城する。 |
永禄11年 (1568) | 織田信長の上洛により、三好方の抵抗拠点となる。 |
天正元年 (1573) | 将軍・足利義昭が挙兵し、足利方の砦として利用される。 |
天正10年 (1582) | 明智光秀が砦として改修し、拠点の一つとする。 |
天正17年 (1589) | 豊臣秀吉によって改修され、淀殿の産所となる。 |
文禄4年 (1594) | 伏見城築城に伴って淀古城が破却される。 |
元和9年 (1623) | 幕府の命により、松平定信が新しい城の普請を開始する。 |
寛永3年 (1626) | 淀城がほぼ完成し、徳川秀忠・家光が入る。 |
寛永10年 (1633) | 松平定信に代わって永井尚政が淀藩主となる。 |
寛永16年 (1639) | 本格的な城下町の整備が始まる。 |
享保8年 (1723) | 大給松平氏に代わって稲葉氏が藩主となり、幕末まで続く。 |
宝暦6年 (1756) | 落雷によって天守が焼失。 |
慶応4年 (1868) | 鳥羽・伏見の戦いが起こる。 |
明治4年 (1871) | 淀城が廃される。 |
昭和43年 (1968) | 淀城跡公園が開園。 |
【主な参考文献】
- 京都市「史料 京都の歴史16 伏見区」(平凡社 1991年)
- 高田徹「近世城郭の建築と空間」(戎光洋出版 2020年)
- 木村礎・藤野保ほか「藩史大事典 第5巻 近畿編」(雄山閣 1989年)
- 西川幸治「淀の歴史と文化」(淀観光協会 1994年)
- 財団法人京都市埋蔵文化財研究所「長岡京跡・淀城跡」(2012年)
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