「茶々(淀殿)」なぜ仇である秀吉の側室に?三度の落城を生き抜いたリアリストの激動人生
- 2026/03/25
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第一の落城:小谷に散った父・浅井長政の背中
茶々(後の淀殿)は近江国小谷に生まれたという。父は北近江の若き名君・浅井長政、母は織田信長の妹であり、戦国一の美女と謳われたお市である。もっとも、彼女の出生そのものを疑問視する研究者もいる。浅井家の史書である『浅井三代記』には、茶々の誕生に関する記述が全くないからだ。「茶々は長政の娘でない」とする説もあるくらいである。
生年についても永禄10年(1567)が定説とされてきたが、近年では永禄12年(1569)説が有力だという。茶々の出生がどうであれ、長政は三姉妹を愛情深く育てたとされる。長政は家臣からも信頼が厚い名君あったから、茶々は長政を尊敬の眼差しで見ていたはずである。
出生の謎はさておき、茶々は両親の愛情に育まれて幸せな生活を送っていたものと思われる。ところが状況が急変する。発端は、織田信長による越前・朝倉義景の討伐であった。
義景が上洛を拒んだのは、義昭の背後に信長がいたからである。当時、朝倉家は室町幕府の副管領的な家格を保持しており、新興の成り上がり大名である信長に従うのは我慢ならなかったのであろう。
一方、長政にとっては、朝倉家は長年の同盟国であり、信長は義理の兄。そして浅井・織田の同盟の際には「織田は朝倉と戦をしないこと」も条件にあったとされる。この越前討伐により、板挟みとなった長政は、苦渋の決断の末に信長を離反し、朝倉との義を選んだ。元亀元年(1570)金ヶ崎の戦いの最中、信長を裏切って反信長の旗色を鮮明にしたのだ。この瞬間、浅井家の運命は暗転する。
まもなく信長が報復にでてきた姉川の戦い(1570)での敗北。その後は本願寺・比叡山・三好三人衆・将軍義昭・武田信玄など、反信長勢力による信長包囲網を形成して応戦するも、天正元年(1573)に武田信玄が病没、朝倉義景も信長に敗れて自害するなど、信長包囲網は瓦解。そしてついに小谷城は織田の大軍に包囲される。
お市ははじめ、茶々ら三人の娘を逃がした後、自らも長政と共に自害するつもりであったという。ところが、長政は市も娘たちと共に小谷城を脱出するよう説得した結果、母子ともに城を脱出することとなる。これは織田方の家臣、藤掛永勝の手引きであったと伝わる。
第二の落城:本能寺の変と、母・市の誤算
その後、茶々たちは織田信包の元で庇護されたというのが定説であった。しかしながら、最近の研究によれば、信長の叔父にあたる信次の元での庇護であったというのが有力となっているようである。ところで茶々は、実の父(=浅井長政)を滅亡に追い込んだ信長を、どのように思っていたのだろうか。当初は憎しみが無かったと言えば嘘になろう。しかし、月日が経つほどに勢力を増し、天下人への道を駆け上がっていく信長を見て茶々の考えは変わっていったのではないか。
特に、天正2年(1574)に信次が戦死して岐阜城で暮らすようになり、その権勢を目の当たりにするようになってからは、力ある人につかなければ幸福になれないとの思いが強くなっていたと思われるのである。このことについては後述したい。
そして天正10年(1582)6月、本能寺の変が勃発。小谷城脱出から10年ほど続いた穏やかな日々は突如終わりを告げた。
驚いたことに、変を起こしたのは織田家ナンバー2の地位にいた名将・明智光秀であった。かつての恩義ある武将が伯父を討ったという報に、茶々は何を思ったであろうか。
そして事態は急展開を見せる。主君・信長の仇を討つべく、中国地方から驚異的な速さで軍を返した男がいた。羽柴秀吉である。
当時としては尋常でない速さで畿内に戻って来た秀吉の動きは、光秀にとって完全に想定外だったろう。十分に軍勢を整えられぬまま戦に突入した光秀は「山崎の戦い」で秀吉に敗れることになる。
信長の仇を打ち、天下取りレースに一躍名乗りを挙げた秀吉を、お市や茶々はどのように見ていたのだろうか。
通説によれば、お市は秀吉を嫌っていたということになっているようだ。山崎の戦いの直後に開かれた清洲会議で、柴田勝家の正室として、お市を迎えることが承認された。この婚儀は勝家が望んだことになっているが、実はお市が秀吉を避けるため、自らアクションを起こしたとは考えられないだろうか。加えて、市は勝家が信長の後継者としての立場を確立するとの読みもあったと思われる。2人とも従来の武家という概念に囚われていたことは間違いなく、それが秀吉の過小評価につながったという側面もあるだろう。
一方、茶々は秀吉のことをどう見ていたのであろうか。
程なく秀吉と勝家は政権運営を巡って対立し、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで雌雄を決することとなる。しかし、勝利したのは秀吉であった。百姓あがりの成り上がり者に、「かかれ柴田」と評された名将柴田勝家が敗れたのだ。
母・お市は勝家とともに自害し、北之庄城は落城。茶々ら三人娘は秀吉の庇護を受けることになったという。母の最期を見届けながら、茶々は確信したのではないか。「母上はまたしても、添い遂げる相手を間違えた」と。
相愛の果てのミステリー。秀頼誕生と豊臣の黄昏
相思相愛の政略?
史料によれば、茶々が秀吉の側室となったのは天正16年(1588)のことだとされる。定説として、茶々は浅井三人娘の中でお市に一番顔立ちが似ていたという。しかし現存する肖像画を比較すると、茶々はお市よりもむしろ父・長政に似ていて、決して絶世の美女という風情ではないというのが私の印象である。美女好みだったといわれる秀吉が、なぜそんな茶々を側室に求めたのだろうか。
茶々は顔立ちというより、醸し出す雰囲気や立ち振舞いがお市に似ていたのではないか。それに豊臣に織田の血を入れたいということもあったであろう。それなら江や初でも良かったはずだが、彼女たちはこの時期既に嫁いでいるし、そもそも婚姻を秀吉自身が斡旋しているから、この2人を側室にするつもりは毛頭なかったと見える。
なぜ長女である茶々だけが、独身でいたのか。秀吉の「茶々を側室にしたい」という願望に皆が忖度し、茶々自身も「秀吉が真の天下人になるのを待っていた」のではないかと推測する。
秀吉が関白・太政大臣となり、天正15年(1587)には九州征伐を完遂。そして後陽成天皇を聚楽第で饗応し、徳川家康を始めとする有力大名に忠誠を誓わせていた天正16年(1588)。この時期をもって豊臣政権が全国統一を完成させたとする歴史学者は多い。当時の人々もそういう意識でいたのではないだろうか。このタイミングで彼女は側室となっているのである。
最強の男が、最強であることを証明し終えるまで、彼女は安売りをしなかった。秀吉が茶々に対してアクションを起こしたという記述のある史料がないのも気になる。茶々は秀吉が武家の頂点に立ったことを確認した上で、秀吉を誘った(忖度させた)結果ではないだろうか。
少なくとも両者の思惑と言う点では「相思相愛」だったというのが私の見立てである。
秀頼誕生のミステリー
天正17年(1589)、茶々は待望の男子・鶴松を出産、喜んだ秀吉は茶々に淀城を与えたという。淀の地を賜ったことから「淀殿」と呼ばれるようになった彼女は、ついに豊臣家の女主人としての地位を確立した。しかし残念なことに鶴松は早世。秀吉の狂乱に近い嘆きを経て、文禄2年(1593)、再び男子を授かる。最初に捨(すて)と名付けられたこの男子こそ、後の豊臣秀頼である。
ここで有名な「秀頼・実父説」に触れぬわけにはいかない。そして秀頼が190cmを超す巨漢、結構なイケメンであったという記録からか、「秀頼様は太閤の子にあらず」という噂が絶えなかったという。
確かに秀吉には十数人の側室がいたが、子を生したのは南殿と淀殿のみであると言う事実があり、また、52歳という当時としては高齢の秀吉に子がなせるのかという疑念もある。
では、実の父親は誰か? 慶長4年(1599)10月1日付内藤元家宛内藤隆春書状によれば、
おひろい様之御局を八大蔵卿と之申し、其の子二大野修理と申し御前の能き人に候、おひろい様之御袋様と共に密通之事に候か、共二相果てるべし之催にて候処に、彼の修理を宇喜多が拘し置き候、共に相果てるに申し候、高野江逃れ候共に申し候よしに候…
とある。
要は、秀吉の側近であった大野治長と淀殿が密通していたという話であるが、この辺から大野治長が秀頼の実の父親ではないかとも言われる。
江戸時代中期の逸話・見聞集である『明良洪範』も、秀頼の父親は大野治長であると断定している。おそらく、大野治長がイケメンの高身長であるという点からでた噂なのだろう。しかし調べてみると、通常ならば乳母に養育を命じるところを淀殿に養育を命じる等、不自然な点が見られることも事実である。
もし密通によるものなら、諜報に長けていた秀吉が知らぬはずはなく、これもまた不自然である。ひょっとして秀吉は治長の密通を知りながら黙認していたのではないだろうか。豊臣の存続のために、あえて信頼する家臣と淀殿の間に「優れた種」を求めたのではないか。
第三の落城:大坂城炎上と、不運の結末
慶長3年(1598)、秀吉が没する。さらにこの翌年には五大老の前田利家もこの世を去り、残されたのは幼い秀頼と、脆い権力基盤だった。悔やまれるのは慶長5年(1600)の石田三成の挙兵(関ヶ原の戦い)であろう。まずは秀頼の成長を待ち、官位をできるだけ挙げることが肝心であった。事実、慶長12年(1607)に官位を返上した際の秀頼の位は右大臣であり、これは将軍家となっていた徳川家とほぼ同格の扱いだったという。
関ヶ原の戦いなどせず、官位を上げる工作を続けておれば、徳川家よりも高い官位につき、朝敵カードを切ることも可能だったのではないか。しかし、天下分け目の決戦として三成と家康の両者が激突し、家康の天下となったのは周知のとおりである。その後、五大老が大坂城を去ったため、実質淀殿が大坂城を取り仕切ることとなる。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣において、豊臣方につく大名はいなかったという。真田信繁などの奮戦で一時的に徳川勢を押し返すが、家康の大砲による攻撃に淀殿は戦意喪失し、和議を結ぶ。和議の条件で堀を埋められた大坂城は丸裸も同然であった。
翌慶長20年(1615)には大坂夏の陣が勃発。もはや勝機はなかった。激戦の末に豊臣方は壊滅。燃え盛る大坂城内で、淀殿は秀頼とともに自害して果てたと伝わる。
三度目の落城。一度目は父を失い、二度目は母を失い、そして三度目は自らの命と息子、そして守り抜こうとした「豊臣の夢」を失った。
あとがき
秀吉に一番欠けていたものは身内カードであったと私は考えている。そもそも男子に恵まれず、有能な弟であった秀長も病で亡くなり、関白の位を譲った甥の秀次も切腹してしまう。事業継承という点から見ると、秀吉は及第点とは言い難い。茶々は天下人のハートをつかむことはできたが、秀吉の身内カードの少なさが滅亡の引き金になることは想定外であったろう。城が落城しないような人物をしっかり選んでいながら、三度目の落城にて落命するとは「不運」としか言いようがない。



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