飛騨統一の拠点となった「桜洞城」の歴史について

ろひもと理穂
 2022/11/22
桜洞城址(岐阜県下呂市萩原町桜洞。出典:<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E6%B4%9E%E5%9F%8E#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E6%A1%9C%E6%B4%9E%E5%9F%8E%E5%9D%80.jpg" target="_blank">wikipedia</a>)
桜洞城址(岐阜県下呂市萩原町桜洞。出典:wikipedia
飛騨統一を成し遂げた三木氏が拠点としたのが、飛騨川の段丘の先端部に築かれた平山城の桜洞城(さくらぼらじょう)です。現在は土塁や空堀の一部が遺構として残されています。今回はこの桜洞城の歴史についてお伝えしていきます。

三木直頼によって築城される

応永18(1411)年、応永飛騨の乱で武功のあった三木正頼が恩賞として竹原郷を与えられ、この地に土着したのが始まりとされています。三木氏は飛騨守護京極氏の代官を務めていました。三木氏初代当主はこの正頼(藤原正頼)です。

江戸時代享保年間に編纂された『飛州志』に記載されている内容によると、飛騨南部統一を果たした三木直頼は三木氏4代目当主で、家督を継いだのは永正13(1516)年のことです。下呂市萩原町萩原に築城された桜洞城は、若き日の直頼によって築かれ、飛騨国平定の拠点となりました。

正式な時期は不明ですが、永正年間にあたる1504年から1521年の時期に築城されています。これには諸説あり、桜洞城は直頼の祖父にあたる三木久頼の居城であり、完成したのが直頼やその跡を継いだ三木良頼の頃という調査発表もあります。

桜洞城はあくまでも三木氏の居館ではありますが、防御に優れた平山城で、飛騨川の流れが形成した谷の中にある段丘の先端部、標高450mに築かれ、北には天然の要塞となる桜谷があり、西には段丘が発達していました。

桜洞城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

発掘調査によると、南と東側には1.5m~1.7mの空堀や土塁跡が発掘されており、規模は最大長でおよそ147m、最大幅でおよそ90mと推定されています。戦国居館としては全国で五指に入る規模です。

直頼は18歳で家督を継ぐと、5年間あまりで高山盆地を制圧し、その10年後の享禄4(1531)年には古川氏姉小路家の古川城を攻略して、古川盆地も制圧。こうして飛騨国の平定を成し遂げて、三木氏は勢力を東美濃まで広げていきました。

天文元(1532)年には、直頼は桜洞城下に旱天宗恵のために禅昌寺を創建し、その師にあたる明叔慶俊を開山としています。直頼はこうして禅宗勢力を後ろ盾として勢力を拡大していくのです。

直頼以後の桜洞城

直頼は桜洞城に拠点を置きながら、高山盆地の八賀・三枝に北方の前線拠点を築き、さらに天文15(1546)年に千光寺を再興し、千光寺と西方の照蓮寺といった寺院勢力の協力のもと、飛騨制圧を目指していきます。

三木氏の情勢が大きく変わったのは天文23(1554)年のことで、直頼が病没。嫡男の良頼が家督を継ぎました。弘治元(1555)年には近郊で、武田氏と長尾氏が激突する第二次川中島の戦いが勃発。良頼は江馬輝盛と共に長尾氏に味方し、飛騨では武田氏に味方した江馬時盛、遠山正廉、さらに武田氏に加勢した西本願寺と対峙することになりました。

良頼は弘治4(1558)年、足利将軍家や関白近衛家に接近して関係を深めていった結果、朝廷から従五位下飛騨守に叙任されます。さらに朝廷工作を続けた良頼は、永禄2(1559)年に古川氏姉小路家の名跡継承を認められました。

なお、永禄5(1562)年には従三位公卿に昇段しています。良頼は従二位権中納言の官位を望んでいましたが、こちらは正親町天皇から拒否されています。

上洛して勢力を拡大した織田信長に対しては、斎藤道三の娘を正室に迎えている嫡男の姉小路頼綱(三木自綱)を上洛させて誼を通じました。元亀3(1572)年に良頼が病没して、頼綱が家督を継ぐと、正室との縁によって織田氏と親族関係を結んでいます。

こうして三木氏は上杉氏から離れ、織田氏に味方していくことになります。この間、三木氏の拠点は桜洞城であり続けたと考えられます。

桜洞城の落城

頼綱は天正7(1579)年に松倉城を築城し、そちらに移りました。桜洞城の城代には嫡男の姉小路信綱(宣綱)が入りましたが、謀反の疑いをかけられ、同年に誅殺されています。桜洞城の城主がその後にどうなったかは不明です。ただし、雪の多い時期にはこの桜洞城に在城したことから、桜洞城は「冬城」とも呼ばれています。

頼綱は天正10(1582)年の本能寺の変の後に、北飛騨の勢力である江馬輝盛を倒し、さらに実弟の鍋島顕綱も殺害。飛騨統一を成し遂げました。天正11(1583)年には家督を次子の姉小路秀綱に譲って、自らは高堂城に移りました。

頼綱は羽柴秀吉と敵対し、柴田勝家に味方したため、天正13(1585)年に秀吉の指示を受けた金森長近に攻められます。この際に三木氏が籠城したのは松倉城であり、桜洞城は守将が誰かわかりませんが、長近の命を受けた金森可重が益田郡方面を攻めて、数日もかからずに桜洞城を落城させたと『斐太後風土記』に記されています。

おわりに

三木氏が滅んだ後、飛騨国を支配した金森氏は、諏訪神社の跡地に荻原諏訪城を築き、桜洞城を廃城しました。

平成21(2009)年、下呂市教育委員会によって桜洞城の発掘調査が行われ、南側と東側に1.5m~1.7mの空堀や土塁跡が見つかっています。戦国時代の飛騨の歴史を感じることのできる絶好の場所がこの桜洞城城址なのです。

※参考:略年表
永正年間(1504~1521)年三木直頼によって桜洞城が築城される
天文元(1532)年城下に禅昌寺を創建し、明叔慶俊を開山とする
天文23(1554)年直頼が病死し、嫡男の三木良頼が城主となる
弘治4(1558)年従五位下飛騨守に叙任される
永禄2(1559)年古川氏姉小路家の名跡を受け継ぐ
元亀3(1572)年良頼が病没し、嫡男の姉小路頼綱が城主となる
天正7(1579)年頼綱が隠居し、松倉城へ移ると、嫡男の姉小路信綱が城主となる。謀反の疑いをかけられ信綱が頼綱に謀殺される(その後の城主は不明)
天正11(1583)年頼綱は隠居し、次子の姉小路秀綱に家督を譲る
天正13(1585)年秀吉方の金森長近に攻められ落城する。長近が飛騨国領主となり、諏訪神社の跡地に萩原諏訪城を築城し、桜洞城を廃城とする
平成21(2009)年下呂市教育委員会によって発掘調査が行われ、空堀や土塁跡を発掘


【主な参考文献】
  • 岐阜新聞Web「山城を攻めろ 桜洞城 三木直頼、戦国飛騨平定の始まりの拠点」
  • 下呂市教育委員会 桜洞城発掘調査報告書第2章

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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