藤原道兼の子孫は坂東武士になった 文武両道の名門・宇都宮氏
- 2024/08/29
鎌倉幕府の有力御家人で、南北朝時代にも戦国時代にも有力武将を輩出した代表的な坂東武士と、貴族のトップである摂関家はどうつながっていたのでしょうか? また、宇都宮氏は道兼だけではなく、道長や異母兄・道綱の子孫という異説もあります。
今回の記事では宇都宮氏誕生の謎に迫ります。
宇都宮氏初代・宗円 道兼流か道長流か?
藤原北家・摂関家でも主流から外れた家系は大臣など高位高官からは遠ざかり、世代を重ねて中級貴族になっていきます。中には京を離れて地方に根を下ろし、貴族から武士へと変貌します。藤原道兼は長徳元年(995)4月27日、兄・道隆の後を受けて関白に就きますが、5月8日に35歳で病死。在任は10日あまりでした。弟・藤原道長が政治の実権を握り、道兼の子息は、兼隆が中納言止まりで、兼綱は伯父・道綱の養子となって受領(地方長官)を歴任。関白に上り詰めた道長の子息とは差をつけられました。藤原兼隆の子・兼房、定房も受領階級、中級貴族でしたが、その藤原兼房の子孫から宇都宮氏が誕生します。
宇都宮下向 前九年合戦で朝敵調伏
宇都宮氏の系図で初代とされているのは藤原氏出身の僧・宗円(そうえん)。藤原道兼の曽孫で、「尊卑分脈」などの系図ではこうなります。
藤原兼家
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道兼
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兼信 兼綱 兼隆
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兼房
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宗円(宇都宮氏)
これが通説。宗円は、前九年合戦(1051~62年)で奥州を攻める源頼義、義家父子に従って下野国宇都宮(栃木県宇都宮市)に下向し、宇都宮明神で敵を調伏。その功績で宇都宮明神の神官トップ・検校職(けんぎょうしき)に就いたとする伝承があります。
宇都宮明神は現在の宇都宮二荒山神社。宇都宮市街地のど真ん中に大きな鳥居を構えている神社です。
宗円は天永2年(1111)10月18日に69歳で死去、康平3年(1060)に18歳で京から宇都宮に移ってきたとする系図があり、長久4年(1043)生まれとなります。なお、『下野国誌』の宇都宮系図など享年79とする史料もあり、これだと、長元6年(1033)生まれとなります。
道長の子孫に「三井寺禅師・宗円」
宗円は藤原道兼の子孫というのが通説ですが、藤原道長の子孫という新説もあります。平安時代後期の貴族・藤原宗忠の日記『中右記』に「三井寺禅師宗円」の名があり、宗円は右大臣・藤原俊家の子であるというのです。俊家は道長の次男・頼宗の次男です。
藤原兼家
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道長
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教通 頼宗 頼通
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俊家 兼頼
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宗円
三井寺とは皇室ともゆかりの深い園城寺(滋賀県大津市)のこと。藤原頼宗は関白・藤原頼通の異母弟で、道長の側室・源明子の子です。道長正室・源倫子の子で関白に就いた頼通、教通に比べれば昇進は遅れますが、従一位・右大臣に上り詰めた上級貴族です。
宗円の宇都宮下向はいつ?
宗円は前九年合戦で源頼義、義家父子に従い、宇都宮に下向したとされます。しかし、宗円が長久4年(1043)生まれとすれば、前九年合戦が起きた永承6年(1051)は9歳で、かなり不自然です。宇都宮下向を天喜元年(1053)や天喜2年(1054)、康平3年(1060)とする史料もありますが、これもかなり若い時。源義家の下野守在任時(1070~75)や後三年合戦(1083~87年)の時が現実的とする見方もあります。また、宇都宮下向時、石山寺(滋賀県大津市)の座主(ざす、住職)や比叡山延暦寺のトップ・天台座主だったと注釈を入れる系図もあります。しかし、歴代天台座主に宗円の名はありませんし、石山寺の史料にも登場しません。宗円の父が藤原兼房だとすれば、中級貴族出身者が若年でこの地位に就くのは考えにくいようです。
一方、道長の孫で右大臣・藤原俊家の子とすると、源頼義・義家父子との主従関係は違った見方が出てきます。源氏の棟梁に従う立場だったのではなく、宗円が源義家の主家筋であり、義家の依頼で宇都宮に同行したという見方もできます。
宇都宮氏2代・八田宗綱こそ道兼の子孫
宗円が藤原道兼ではなく、藤原道長の子孫だとすると、宇都宮氏は道長の流れをくむ一族となるはずですが、そうではなく、やはり道兼流とみた方が良いようです。宇都宮氏2代目・八田宗綱こそ道兼の子孫であり、宗綱と宗円の間に血縁関係はなかったとする指摘があります。宗円と血縁関係なし 関東進出した京武者
八田宗綱こそ藤原道兼の子孫とする系図はあります。
藤原兼家
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道兼
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兼信 兼綱 兼隆
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兼房
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兼仲
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八田宗綱
八田宗綱は藤原氏出身の京武者で、関東に進出し、常陸平氏の一族である多気致幹の娘を妻に迎え、常陸平氏の援助も受けながら坂東武士としての地歩を固めます。拠点とした八田の地は現在の茨城県筑西市と推定されます。八田宗綱が宇都宮を名乗ったとする史料はなく、宗綱の代では宇都宮進出を果たしていません。
系図では宇都宮氏初代・宗円が2代目・八田宗綱の父となっています。しかし、この親子関係は不確かで、養子関係さえ後付けという見方もあります。
競合関係にあった中原姓宇都宮氏
また、八田宗綱を藤原道兼の子孫としながらも「あるいは中原姓」と注釈を入れる系図や、宗綱の弟を中原宗房とする系図もあります。中原宗房の孫・宇都宮信房が豊前国城井郡(福岡県みやこ町)を拠点に豊前宇都宮氏を興しますが、この系統は中原姓。豊前宇都宮氏も戦国時代末期まで続きますが、宇都宮鎮房(しげふさ、城井鎮房)が黒田如水、長政父子に謀殺されて滅亡します。
なお、中原宗房と宇都宮信房は系図では父子とされますが、その間に実名不詳の人物がいて、実際には祖父・孫の関係です。
結局、宇都宮氏のルーツは藤原氏か、中原氏か。こういう疑問が湧き起こります。
これは宇都宮地域の支配をめぐって藤原氏系と中原氏系と競合し、最終的に藤原氏系が宇都宮を押さえ、敗れた中原氏系も宗円直系とする系図が創作され、出身の全く異なる八田宗綱と中原宗房を兄弟とする系図ができてしまったと推測できます。勝者による系図の統合です。
道長異母兄・道綱の子孫とする系図も
また、藤原道兼、道長の異母兄・藤原道綱が登場する史料もあります。「続群書類従」の「宇都宮系図」別本などです。宗円を藤原道綱の孫・顕綱の子とし、宗円の子である八田宗綱が藤原顕綱の養子となったとする系図や、八田宗綱を道兼流の藤原兼仲の子としながらも、藤原道綱の孫・顕綱の子とする注釈を入れる系図です。
藤原兼家
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道長 道兼 道綱 道隆
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兼経
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顕綱
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宗円
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八田宗綱
すなわち、八田宗綱の父は以下の諸説があり、宇都宮氏誕生の経緯の複雑さを示しています。
- ①宗円
- ②藤原兼仲(道兼の曽孫)
- ③藤原顕綱(道綱の孫)
- ④中原宗家
宇都宮氏3代・朝綱 宇都宮進出果たす
宇都宮氏は3代目の宇都宮朝綱(ともつな、1122~1204)がようやく宇都宮進出を果たし、朝綱から宇都宮氏を名乗ります。それなら、宇都宮朝綱が初代でよいのではないかとも思えますが、宇都宮氏系図は、初代・宗円、2代目・八田宗綱、3代目・宇都宮朝綱としています。
宇都宮朝綱は源頼朝に宇都宮明神検校職を認められた神官領主。その地位は子孫の宇都宮氏当主に引き継がれます。宇都宮氏が宇都宮を支配する根拠として、源義家との縁を強調し、宇都宮明神で朝敵を調伏した宗円の伝説、宗教的権威が必要だったのです。
八田と宇都宮をつなぐ益子の地
宇都宮朝綱は宇都宮進出の過程で栃木県益子町に痕跡を残しています。父の根拠地だった常陸・八田から宇都宮への道筋にあたる地域で、下野東部に拠点を持つ益子氏、芳賀氏を家臣とし、下野南部の有力一族・小山氏と連携し、下野国内での地盤を固めていったのです。宇都宮朝綱は益子に尾羽寺(現・地蔵院)を建立し、その敷地にある綱神社には宇都宮氏歴代当主の墓とされる五輪塔などがあります。朝綱が宗円や父・八田宗綱の墓を築き、自らの墓もこの地に定めます。益子は宇都宮氏にとって重要な場所なのです。
宇都宮歌壇 百人一首と新○和歌集
宇都宮氏の家臣となった益子氏の本姓は紀で、芳賀氏は清原。両氏は紀清両党と言われ、その強さ、勇猛さは南北朝時代にも戦国時代にも語り草となります。坂東武士らしい武骨さが顕著です。一方で宇都宮氏は貴族らしさも持ち合わせていました。和歌を得意とする人物を輩出し、京、鎌倉に並ぶ宇都宮歌壇を形成しました。宇都宮朝綱の孫・頼綱は出家して蓮生と称し、藤原定家との交流から百人一首誕生に関与。頼綱の弟・塩谷朝業(しおのや・ともなり)は鎌倉幕府3代将軍・源実朝との和歌の交流が知られています。一族を中心とした186人875首をまとめた「新○和歌集」(しんまるわかしゅう)も宇都宮歌壇のレベルの高さを証明しています。
おわりに
宇都宮氏のルーツは諸説ありますが、藤原道兼の子孫である八田宗綱、宇都宮朝綱父子が関東に進出し、朝綱の代に中原氏との宇都宮争奪戦に勝ったとみるのが合理的のようです。その過程で、藤原道長の子孫で園城寺の僧だった宗円を名目上の初代とし、宗円―八田宗綱―宇都宮朝綱と続く系図を創作し、中原氏の系統も取り込んだのではないでしょうか。宇都宮を支配する説得力として、宇都宮明神の神官トップの地位と坂東武士に崇拝される源義家との絆を持つ宗円の伝説が重要だったのです。宇都宮氏のルーツを探ると、摂関家の重要人物である藤原道兼、道長、道綱の兄弟が揃って登場するのも興味深いところ。道綱ルーツ説は根拠が弱いものの、宇都宮氏当主の実名は代々「綱」の字を用いているところが気になります。
【主な参考文献】
- 江田郁夫編『中世宇都宮氏 一族の展開と信仰・文芸』(戎光祥出版、2020年)
- 市村高男編『中世宇都宮氏の世界』(彩流社、2013年)
- 栃木県立博物館特別企画展図録『中世宇都宮氏―頼朝・尊氏・秀吉を支えた名族―』(栃木県立博物館、2017年)
- 宇都宮市史編さん委員会編『宇都宮市史』(宇都宮市、1979~1981年)
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