「紀清両党」楠木正成も恐れた宇都宮氏の精鋭軍団
- 2024/08/01
鎌倉幕府打倒を目指す後醍醐天皇に呼応して挙兵した楠木正成。何十倍もの幕府軍を相手にしても、ひるまずに戦いましたが、宇都宮公綱(うつのみや・きんつな)とその両翼を支える精鋭部隊「紀清両党(きせいりょうとう)」については少数でも「坂東一の弓取り」として侮らず、直接対決を避けました。
名将・楠木正成が恐れた「紀清両党」とはどんな集団で、どんな活躍をしたのでしょうか。
名将・楠木正成が恐れた「紀清両党」とはどんな集団で、どんな活躍をしたのでしょうか。
「坂東一の弓取り」天王寺の戦い 楠木正成が警戒
元弘元年(1331)10月、赤坂城(大阪府千早赤阪村)の落城後、行方をくらませていた楠木正成が再挙兵します。赤坂城を奪還し、元弘3年(1333)1月、四天王寺(大阪府大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)方面に進出。天王寺の戦いです。『太平記』は元弘2年(1332)4月としていますが、楠木正成は2000騎を3隊に分け、六波羅探題、畿内の兵を中心とした鎌倉幕府勢7000騎を撃破。六波羅勢の敗退は京童(若者)に笑われ、逃げ帰った武将はしばらく仮病で出仕を見合わせる始末でした。この危機に派遣されたのが下野の有力御家人・宇都宮公綱です。
「戦場の命、塵芥よりもなお軽し」
宇都宮公綱は六波羅から宿舎に寄らず、ただちに四天王寺方面に向かいます。楠木一族の和田孫三郎は決戦を進言しますが、楠木正成は別の考えを持っていたようです。和田:「(鎌倉)幕府側は先日の敗退に腹を立て、宇都宮勢を差し向けてきましたが、600騎か700騎に過ぎないようです。われらは勢いに乗って兵も増えています。こちらから攻め寄せて蹴散らしてしまいましょう」
正成:「宇都宮は坂東一の弓取りで、紀清両党の兵は命知らず。戦場での命は塵芥(ちりやごみ)よりも軽いという連中だ。わが方は負けなくても多くの兵を失う。天下の趨勢はこの一戦にかかっているわけではない。戦いは今後も続くのだ。良将は戦わずして勝つというではないか」
面目保ち撤退 先を読んだ攻防
四天王寺の攻防は楠木正成が退き、宇都宮勢は戦わずして一帯を占拠。宇都宮公綱は油断せず、周辺を警備しつつ、聖徳太子を祀るお堂を拝みました。公綱:「この勝利はわが武力によるものではなく、すべて神仏のご加護によるものです」
この後、正成は周囲の峰々にかがり火を焚き、宇都宮勢は敵の奇襲に備えて毎夜警戒したので徐々に疲労の色が濃くなります。もともと宇都宮勢の兵は少なく、紀清両党の面々は宇都宮公綱に進言します。
紀清両党の面々:「あの大軍と戦ってもよい結果は出ないと思われます。先日、敵を追い払ったことで面目は立っているので、ここは京にお戻りください」
宇都宮勢は京に引き揚げ、翌朝、四天王寺は正成が再占拠しました。互いに相手の打つ手の先を読み、刃を交えずとも緊張感ある駆け引きを展開。『太平記』も「両者は智謀に優れ、先を見通す良将だった」と褒めています。
主君は南朝 幼君支えて北朝に走った芳賀禅可
「紀清両党」とは宇都宮氏家臣の益子氏と芳賀氏の軍勢です。益子氏は本来、紀氏という氏族で、芳賀氏はもともと清原氏。それぞれ根付いた地域を苗字とし、益子氏、芳賀氏と名乗りますが、本来の氏族名の紀と清原で紀清両党です。紀氏は紀貫之、清原氏は清少納言といった文化人を輩出した京の貴族。そうした一族の支流が関東で武士化したのです。このころの紀清両党の中心人物は紀党・益子貞正、清党・芳賀禅可です。芳賀禅可の実名は芳賀高名ですが、『太平記』などでは法名の禅可で登場します。
また、芳賀氏は宇都宮氏との血縁関係も密接。芳賀禅可の父・芳賀高久は宇都宮景綱(宇都宮公綱の祖父)の次男。養子に入って芳賀氏家督を継ぎました。
宇都宮公綱は南朝軍主力に
宇都宮公綱は鎌倉幕府の有力御家人でしたが、遠征中に鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇の綸旨を受けて官軍に降伏します。その後、宇都宮公綱は後醍醐天皇に従い、一時的に足利尊氏に降伏しますが、尊氏の九州撤退などを機に後醍醐側に転じます。建武4年(1337)、北畠顕家の奥州勢が関東を攻めた際、宇都宮公綱は紀清両党を含めた1千騎を引き連れ、武蔵国府で北畠顕家に合流。この後の鎌倉攻めでも、年が明けた暦応元年(1338)の青野原の戦いでも、南朝勢は北畠顕家、新田義興、北条時行、宇都宮公綱が主力部隊となっています。
加賀寿丸押し立て北畠顕家に抵抗
北畠顕家の関東攻めの際、清党を率いる芳賀禅可は当主・宇都宮公綱に従わず、幼君・加賀寿丸(公綱の嫡男・宇都宮氏綱)を立てて南朝勢に抵抗。北畠顕家が派遣した奥州の兵に宇都宮城を攻められ、降参しますが、4、5日後には再び北朝に走るといった始末。青野原の戦い前も仮病を使って南朝から離れます。結局、宇都宮勢本隊は加賀寿丸を押し立てた芳賀禅可が指揮し、当主・宇都宮公綱のもとに残った方が少数でした。関東で足利勢から離れると、周囲は敵ばかりになってしまいます。宇都宮氏の家臣の多くは足利尊氏に従う方針に傾いたようです。
主君に離反するとは裏切りであり、武士らしくないと感じるかもしれませんが、主家と自身の家の存続を第一に、現実的な対応を取るのも坂東武士の特徴です。戦場で命を捨てる覚悟を示す一方、主家や自身の家が滅亡に向かう無意味な戦いは嫌う傾向にあります。
こうした経緯から芳賀氏の居城・飛山城(栃木県宇都宮市)は南朝の攻撃目標とされて落城したこともあります。
「味方に笑われるな」戦場に向かう息子に袈裟
芳賀禅可の主導で関東における北朝・室町幕府軍の主力となった宇都宮氏は勝ち組として生き残ります。足利尊氏と弟・足利直義が争った観応の擾乱では、観応2年(1351)12月の薩埵山の戦いで活躍。直義側近の上杉憲顕が失脚したことで代わりに宇都宮氏綱が上野、越後の守護に就き、禅可の子・芳賀高貞、高家は守護代として氏綱を支えました。
「弓矢で後ろ指を差されないのはわが一党のみ」
紀清両党は室町幕府軍の中でも指折りの精鋭部隊。常に戦場にその雄姿がありました。延文5年(1360)4月の紀州合戦で幕府軍は南朝軍に惨敗し、幕府高官、猛将たちは顔色を失いました。ところが、仁木義長は「皆々追い散らされて裸になって逃げてゆくわ。面白いから見物しよう」と味方の敗戦を嘲笑。味方とはいえ、逃げる兵たちの情けない姿がツボにはまって笑っていたのです。
こうした状況で、芳賀禅可は嫡男・高貞を戦場に送り出します。
禅可:「東国に名のある武士は多いが、弓矢の道で後ろ指を差されないのはわが一党だけだ。撤退すれば、敵が勢いづくだけでなく、右京大夫(仁木義長)に笑われる。これは大恥だ。敵を追い落とすことができないなら再びお前の顔を見ることはない。これは円覚寺の長老にいただいた袈裟だ。来世のため、母衣にかけていけ」
出陣の花向けに袈裟を贈る芳賀禅可。『太平記』は
「最愛の子に向かって、ただ討ち死にせよと勧める心の内こそ哀れ」
と書いています。芳賀氏の清党は盾も構えず、矢も放たずに太刀を抜いて決死の突進。敵を退却させ、前回の味方の恥を注ぎ、坂東武士の強さを示したのです。
おわりに
坂東武士は戦場で命を捨てて戦い、忠節を尽くしますが、主君と意見を異にしても最善と思う道を選ぶこともあります。宇都宮氏を支えた紀清両党も死を恐れぬ勇猛さを見せると同時に、常に勝者であろうとする現実的対応をはかります。特に芳賀氏の清党はこの後も勢力を増し、次第に益子氏の紀党を圧倒。戦国時代には、ときに主家・宇都宮氏以上の力を持ち、そのためにトラブルも起こします。これもまた、坂東武士らしさです。
【主な参考文献】
- 兵藤裕己校注『太平記』(岩波書店、2014~2016年)岩波文庫
- 江田郁夫編『中世宇都宮氏』(戎光祥出版、2020年)
- 亀田俊和、生駒孝臣編『南北朝武将列伝 南朝編』(戎光祥出版、2021年)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄