【和歌山県】和歌山城の歴史 紀州徳川家の威厳を示す城
- 2025/01/30

和歌山県には歴史的遺産が数多くあります。高野山金剛峰寺や紀三井寺、あるいは熊野三山や熊野古道など、歴史好きにとっては、宝の山のような感じでしょうか。また県内に散在するお城も魅力的です。田辺城や新宮城、赤木城といった名城がたくさんあり、お城ファンでなくても楽しめるはず。
さて、大阪方面からもっともアクセスが良い名城といえば、何といっても和歌山城でしょう。鉄道で紀の川を越えれば、じきに天守が見え隠れしてきます。この城は、市街地の中心とは思えないほど静かで、木々の緑が多いことが特徴です。きっと訪れる人々に、癒しと安らぎを与えてくれるのではないでしょうか。そんな和歌山城の歴史について紹介してみたいと思います。
さて、大阪方面からもっともアクセスが良い名城といえば、何といっても和歌山城でしょう。鉄道で紀の川を越えれば、じきに天守が見え隠れしてきます。この城は、市街地の中心とは思えないほど静かで、木々の緑が多いことが特徴です。きっと訪れる人々に、癒しと安らぎを与えてくれるのではないでしょうか。そんな和歌山城の歴史について紹介してみたいと思います。
羽柴秀吉に築かれた初期の和歌山城
和歌山城が築かれる以前、その周辺は雑賀庄と呼ばれ、雑賀衆や太田党が支配する地域でした。紀の川河口という恵まれた立地を生かして、海運や貿易で財を成し、戦国時代には有数の鉄砲集団として武威を示しています。やがて羽柴秀吉が台頭して中央政権を打ち立てると、彼らは反秀吉勢力と結びついて反抗の姿勢を見せましたが、天下人の実力を見誤ったことで、逆に征伐を受けてしまいます。
天正13年(1585)、10万ともいわれる羽柴軍が紀州へ侵攻すると、根来寺や粉河寺は焼き払われ、雑賀庄一帯も炎上したといいます。最後に残った雑賀・太田の残党は、太田城に籠城して最後の抵抗を見せますが、秀吉の水攻めによって屈服し、ここに紀伊一円は平定されました。
その直後、秀吉は堤防を築く際に動員した領民を集めさせ、その数は1万に及んだといいます。その目的は新たな城を築くことでした。虎伏山(吹上ノ峰)という瓢箪の形をした小山が築城地として選ばれ、わずかな期間で完成に漕ぎつけたそうです。
秀吉が急いで城を築かせた理由、それは叛服常ない雑賀の人々に、財力と威厳を誇示するためでした。つまり戦う気力を失わせる心理作戦を仕掛けたのでしょう。だからこそ築城が急務だったのです。
『紀伊続風土記』によれば、このように記されています。
「此地の体勢、城地に宜きを観察して、親く自縄張を命し、三月二十一日鍬初あり。藤堂高虎ノ守、羽田長門守、一庵法印を普請奉行として、本丸二ノ丸其年の内竣る」
秀吉は自分で城の縄張りを決め、藤堂高虎・羽田正親・横浜一庵を普請奉行として、3月21日に鍬初めが行われたとあります。その年のうちに本丸と二の丸が出来上がり、城がほぼ完成しました。
おそらく秀吉は大まかに指示を出しただけで、縄張りや普請のほとんどは高虎が担ったのでしょう。のちに徳川頼宣が和歌山城の拡張を計画した際、まず高虎に相談したといいますから、築城のほとんどを高虎が担当した可能性が高いのです。
ちなみに秀吉は風光明媚な「和歌浦」を気に入り、こんな歌を詠んだといいます。
「いにひへの眺めの和歌浦 ひろふ貝こそあらまほしけれ」
当時、虎伏山の南側に「岡山」という丘陵が続いており、そこには古い城がありました。秀吉は新しい城が完成すると、名前を岡山から和歌山へ変えさせたと伝わります。
こうして和歌山城と名付けられた城は、本丸と二の丸しかない小さなものでした。また櫓が数基あったと推察されますが、その構造を伝える史料は残っていません。
桑山重晴の時代
秀吉は、和歌山の地をかなり重要視したようです。すでに本拠たる大坂城が完成しており、近江に浅野長政、丹波に養子・秀勝、高槻に高山右近と、北の守りは自分の息が掛かった者たちで固めました。いっぽう南の守りについては、弟・秀長に大和・紀伊・和泉を与えることで盤石としています。とりわけ和歌山は、大坂城から見て南の要衝にあたり、大和からは搦手の位置にあたりますから、やはり信頼できる者を置きたいところでしょう。
そこで城代に抜擢されたのが桑山重晴(くわやま しげはる)です。賤ヶ岳の戦い(1583)や紀州征伐(1585)で活躍し、秀長の重臣として但馬竹田城の城主を務めていました。ちなみに竹田城の別名を「虎臥城」といいますが、実は和歌山城も「虎伏城(とらふすじょう)」と呼ばれることがあります。もしかすると、竹田城主を務めた重晴に由来するのかも知れませんね。
3万石で和歌山城へ入った重晴は、さっそく城の改修に取り掛かり、旧来の本丸・二の丸を整備するとともに、初めて天守を築造しています。
『南紀徳川史』(明治34年編纂)によれば、「小なる方は、かの重晴が築造の係る呼びて古天守と称す」とあり、そこに天守があったと記されています。さらに『和歌山城絵図』にも、御天守と対極するかのように「小天守」がはっきりと描かれており、重晴が築いた天守であることを示唆しています。ただし、規模としては小さく、せいぜい二重櫓が建った程度かも知れません。
また、桑山氏の時代には、城の拡張が行われました。ちょうど二の丸の東南方向へ大手門が作られ、巨大な枡形が設けられたようです。現在の岡口門にあたり、今でもその構造を確認することができます。

こうして大手門が東向きに作られたことで、城下町も東へ向けて整備されていきました。当時の記録に「ようやく広瀬町、細工町、幹町、堀詰ならん」と記されていますから、徐々に城下町が形成されていったのでしょう。
浅野氏の時代
関ヶ原の戦い(1600)が終わると、戦功を挙げた浅野幸長が紀伊の太守となりました。37万石という大封を得たことで、それにふさわしい体裁を整えねばなりません。さっそく和歌山城の増改築に乗り出します。まず本丸部分に新たな天守を築造しました。これは白漆喰ではなく、黒い板張りの三重天守だったようです。また、二の丸に御殿を設けるなど、着々と主要部の整備が進んでいきました。さらに和歌山城の縄張りを北方向へ拡張させています。従来の大手門は、搦手にあたる岡口門へ変更になり、巨大な枡形は三の丸として活用されました。そして新たな大手門(市之橋門)が北方向へ付け替えられています。
また、城の拡張に伴い、三の丸の北には蔵ノ丸や下ノ丸が新たに作られました。この部分の石垣内部には「雁木」と呼ばれる石段が設けられ、万が一の際、土塁へ素早く登ることが可能となっています。
この浅野氏の時代における拡張工事では、大名の居城にふさわしい新たな居住空間が生まれました。城の西側一帯に「鶴ノ渓(西の丸庭園)」という優雅な庭園を設け、そこでは鶴を飼育していたといいます。設計者は茶人としても知られる上田宗箇で、枯山水の庭に池泉回遊式を組み合わせた、風情のある庭園だったことでしょう。
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紀州徳川家の時代
元和5年(1619)、紀伊藩主・浅野長晟は安芸・備後へ国替えを命じられ、代わって徳川家康の十男・徳川頼宣が55万石で和歌山城へ入りました。さっそく2年後に改修工事が始められ、幕府からは銀2千貫の援助があったといいます。現在の価値で30億円ほどですから、かなり大掛かりなプロジェクトだったのでしょう。
まず南ノ丸や砂ノ丸といった曲輪が増築されました。これで虎伏山の山麓を曲輪が取り囲む形となり、山頂部は連郭式、山麓部は輪郭式という城郭形態が完成しています。
また、城下町も大規模に拡張整備され、寺町を南側へ形成するなど、現在の和歌山市の基礎が出来上がりました。ただし城と城下町の整備工事があまりに大規模だったことから、幕府から大きな疑念を持たれてしまいます。そのため延伸予定だった堀の掘削は途中で断念せざるを得なくなり、その地は「堀留」として、現在も地名が残っているのだとか。
さらに改修工事に伴って、石垣の修築も行われています。直線的な石垣から「横矢」という折れを持つものへ改修され、死角をなくして横方向への防御性を高めました。石の加工技術が発達したことで、各所に切り込みハギの技法が用いられています。石同士の隙間をなくすことで、より美しく崩れにくい石垣が完成したのです。
ちなみに紀州徳川家の時代、山頂にある曲輪の呼び方が変更されました。従来の本丸が「天守曲輪」、二の丸が本丸となっており、文化年間に描かれた城の遠望図によると、「御天守郭」という文字が確認できます。
これは浅野氏時代にあった二の丸御殿を撤去し、あらたに本丸御殿を建てたことに端を発するもので、藩主の生活空間として利用されるはずでした。ところが本丸御殿は、造営初期と幕末にしか使用されず、藩主はもっぱら山麓の二の丸御殿で政務を執ったり、生活の場をもうけていたようです。また二の丸御殿には、江戸城と同じように大奥がありました。そこは藩主の正室や側室が暮らす空間だったといいます。
さて、城の北西には西の丸があり、二の丸とは御橋廊下で繋がっていました。もともとは藩主の隠居所として造営されたのですが、初代藩主・徳川頼宣が一時的に使用したのみだったようです。それ以降の西の丸は能舞台や庭園が設けられるなど、風雅を楽しむ場となりました。現在、復元された御橋廊下が堀に架かり、往時の雰囲気を伝えていますね。

歴代藩主の念願だった天守再建計画
初代藩主・徳川頼宣が和歌山城へ入った時、浅野氏が築いた漆黒の天守が建っていました。頼宣はずっと白亜の天守を持つ駿府城で過ごしてきましたから、おそらく城を改修する際、天守の建て替えまで視野に入れていたことでしょう。ところが、改修工事が大規模になったことで幕府から目を付けられてしまい、念願だった天守の再建はなりませんでした。頼宣の無念さを伝えるこんな逸話があります。
──
明暦元年(1655)、城下から発した火災は市街へ燃え広がり、さらに和歌山城二の丸の櫓や門が延焼しました。当時、江戸にいた頼宣は報告を受け取ると、すぐさま「天守はどうなった?」と問い返したそうです。家中の者が「安泰でございます」と告げると、とたんに不機嫌になってしまったといいます。
──
「天守が焼けたら、思い通りのものが再建できたのに…」
そんな頼宣の悔しさが伝わってくるようです。
2代藩主・徳川光貞の時代も状況は変わりません。江戸中屋敷の焼失や、将軍家との婚儀で出費が続き、再建するどころではありませんでした。
5代藩主・徳川吉宗の代になると、さらに状況は深刻になります。先代・先々代藩主が相次いで亡くなり、その葬儀で財政が圧迫されたこと、また宝永の南海地震で藩内の被害が深刻だったこと、さらに幕府から借財の返済を求められたことから、天守を建て替える余裕などなかったのです。
それでも吉宗は頑張りました。自ら質素倹約に努めて家臣に奨励し、紀の川の水運事業に力を入れ、新田開発を進めたことで、ようやく天守再建の費用を捻出できたのです。ただ、新たな天守台の工事費用を見積りする段階になって、吉宗は8代将軍として江戸へ去ってしまいました。
結局、天守は再建されないまま10代藩主・徳川治宝まで代を重ねていきますが、すでに新たな天守を造ることはご法度になっていました。それでもあきらめきれない治宝は、ついに黒い壁を白く塗り直すことで幕府の許可を得ました。再建ではないとはいえ、ようやく念願の白い天守が虎伏山に聳え立ったのです。
ところが思いがけないことで、天守は再建される運びとなります。弘化3年(1846)の夏、落雷によって天守が炎上しました。すでに治宝は隠居していましたが、勇躍して再建許可を幕府に求めています。完成した天守は、焼失前とほぼ同じ外観を持つものでした。おそらく幕府を憚り、「焼ける前と同じ天守なら再建しても良い」と許可を得たのでしょう。
嘉永3年(1850)に天守が落成し、いかにも徳川の城らしい白亜の外観となりました。また小天守を付属させることで、バランスの良い見た目となっています。ただ、和歌山城の天守は、箱を重ねたような層塔型となっていますが、なぜか廻り縁が付属していました。これは現代でいうバルコニーですが、基本的に望楼型天守でのみ見られるものです。そういった意味では非常に珍しい天守だと言えるでしょう。
和歌山城の石垣の変遷
和歌山城の石垣は、桑山氏時代、浅野氏時代、紀州徳川家時代と、それぞれの時期に応じた石を見ることができるようです。桑山氏時代では、山頂から山麓にかけて分布する「緑色片岩」が数多く積まれています。この石は平たく割れやすい性質を持っており、加工がしにくい点がデメリットでした。もし緑っぽい石が野面に積まれていたなら、それは安土桃山時代の石垣ということになります。
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また、墓石の基壇が含まれていることも特徴でしょう。織豊系城郭の場合、石材を素早く調達する兼ね合いから、そのような転用石を用いることは珍しくありません。例えば福知山城のように、数多くの基壇を石垣として積んでいるケースもありますから。
次いで浅野氏の時代になると、緑色片岩ではなく和泉砂岩が用いられました。加工しやすいことで石の隙間をなくし、高く石垣を積めるようになっています。また刻印石が数多く確認できることも大きな特徴です。およそ140種、2千個以上を数え、おそらく丁場の範囲や責任者、作業グループの判別のために刻まれたのでしょう。

紀州徳川家の時代になると、石の加工技術はますます発達しています。
従来の打ち込みハギだけでなく、切り込みハギの技法も見られ、より緻密で精巧な石垣を積むことができました。また「千切り」といって、石を合わせて蝶ネクタイの形に切り欠き、そこへ鉄や鉛の鋳物をはめ込むことでズレを防止するなど、最先端の技法が見られるようになります。

明治以降
さて、明治を迎えると、和歌山城の建造物はことごとく取り壊されました。ただし、天守や狭間塀、不明門、追廻門などは破壊を免れています。また、二の丸御殿は見た目が豪華だったことで大阪城へ移されました。しかし残念なことに、せっかく残った天守も昭和20年(1945)の和歌山空襲によって焼失、移築された二の丸御殿も昭和22年(1947)に失火によって焼失しています。現在の復元天守は昭和33年(1958)に再建されたものです。とはいえ、写真や史料が残っていたことで、往時の姿そのままに再現することができました。今や和歌山のシンボルとして、なくてはならない存在となっているのです。
おわりに
豊臣の城から徳川の城へ。そんな変遷を歩んできたのが和歌山城です。あちこちに残る各年代の石垣を見れば、それぞれの時代に即した特徴があり、一つ一つ確認してみると意外に楽しいものです。城がどのような歴史をたどってきたのかわかるのではないでしょうか。また、城内には復元天守のほか、二の丸庭園や御橋廊下など歴史的景観を楽しめるスポットがたくさんあり、往時の姿を偲ぶことができます。豊かな緑に囲まれながら、ゆったりとした時間を過ごしてみたいものですね。
補足:和歌山城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
天正13年 (1585) | 羽柴秀吉によって和歌山城が築かれる。 |
天正14年 (1586) | 桑山重晴が城代として入城。本丸周辺の普請をおこなう。 |
慶長5年 (1600) | 浅野幸長が紀伊国主となる。和歌山城を改修し、初めて天守を造営する。 |
元和3年 (1619) | 徳川頼宣が紀伊藩主となる。 |
元和7年 (1621) | 城の拡張・整備工事が始まり、南ノ丸や砂ノ丸などが整備される。 |
明暦元年 (1655) | 都築瀬兵衛の屋敷から出火し、二の丸などが焼亡。 |
寛政3年 (1796) | 市之橋門を大手門、時計櫓を太鼓櫓に改称する。 |
寛政10年 (1798) | 幕府の許可を得て、板張りから白壁の天守へ改修する。 |
弘化3年 (1846) | 落雷によって天守が焼失。 |
嘉永5年 (1850) | 幕府より許可を得て、天守が再建される。 |
明治4年 (1871) | 和歌山城が廃城となる。 |
明治6年 (1873) | 陸軍省が調査した結果、三の丸以外が保存城郭に指定される。 |
明治18年 (1885) | 二の丸御殿が大阪城へ移され、紀州御殿となる。 |
明治34年 (1901) | 県が城跡を借り受け、和歌山公園として一般に開放する。 |
昭和10年 (1935) | 天守群が国宝に指定される。 |
昭和20年 (1945) | 和歌山空襲によって天守が焼失。 |
昭和33年 (1958) | 復元天守群が完成する。 |
昭和57年 (1982) | 一ノ橋大手門が復元される。 |
平成18年 (2006) | 御橋廊下が復元される。同年、日本100名城に選出される。 |
【主な参考文献】
- 水島大二『和歌山の近世城郭と台場』(戎光祥出版 2018年)
- 水島大二『ふるさと和歌山城』(ニュース和歌山 2020年)
- 城郭史料研究会『近世城郭の謎を解く』(戎光祥出版 2019年)
- 仁木宏・福島克彦『近畿の名城を歩く 大阪・兵庫・和歌山編』(吉川弘文館 2015年)
- 和歌山県文化財センター『特集 和歌山城跡の発掘調査』(2012年)
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