【兵庫県】明石城の歴史 家康の鬼孫が築いた近世城郭

 天下普請の城といえば、彦根城や篠山城など、大坂城の豊臣氏に備えるために築かれた城郭が多いのですが、豊臣氏が滅亡したのちに築城・改修される場合もありました。それが明石城・尼崎城・高槻城などの近世城郭です。

 とりわけ明石城の築城はもっとも遅く、完成を見たのは元和6年(1620)のこと。すでに泰平の世となっており、大きな城を築く必要性などなかったはずでしょう。

 なぜ明石の地に城が築かれたのか?その理由とともに明石城の歴史をご紹介していきましょう。

「鬼孫」と呼ばれた小笠原忠真実

 明石城を築いたのは小笠原忠真という人物ですが、「忠真」と名乗るのは、のちに小倉へ移ってからです。本来なら「小笠原忠政」と表記するのが正しいのですが、彼の岳父が本多忠政であることから、ここでは「忠真」と呼ぶことにしましょう。

 もともと小笠原家は、信濃守護を務めるほどの名門でしたが、天文19年(1550)に武田信玄の侵攻に伴って所領を失ってしまいます。やがて小笠原貞慶の代になると、徳川家康を経て豊臣秀吉の直臣となるものの、秀吉の怒りを買って改易となってしまいました。

 それでも貞慶の子・秀政は再び徳川家臣となり、家康の孫娘を正室として迎えています。つまり小笠原家と徳川家は縁戚関係で結ばれたわけですね。

 そして秀政と福姫の間には、二人の男子が生まれました。嫡男・忠脩と次男・忠真です。また慶長18年(1613)には旧領の松本8万石が与えられたことで、小笠原家の行く末は明るくなったに違いありません。

 ところが小笠原家を悲運が襲います。慶長20年(1615)に起こった大坂夏の陣において、豊臣方の毛利勝永隊の猛攻を受けた小笠原勢は壊滅。秀政・忠脩父子が戦死するほどの激戦となりました。この時、忠真は重傷を負うものの、鬼神のような奮戦ぶりを見せたといいます。

 家康は殊のほか喜び、「さすがは我が鬼孫よ」と称えたとか。実際には曾孫にあたりますが、生母・福姫が家康の養女になっていた関係で、孫とみなされたわけですね。

 しかし父と兄が亡くなった今、小笠原家を継ぐのは忠脩の嫡男・長次であるべきところ、まだ幼少だったことから忠真が継承しました。当初は長次に家を継がせて、自分は後見役になりたいと考えていましたが、のちに長次は別家を立てて龍野藩主となっています。

 やがて忠真は信濃松本から播磨明石へ移封となりますが、なぜその場所が明石だったのか?その理由を考えていきましょう。

明石に城が築かれた理由とは?

 忠真が明石へ移るまで、播磨を領していたのが池田家です。池田輝政は壮麗な姫路城を築くいっぽうで、龍野・三木・高砂・明石などへ支城を配置していました。ただし明石城はまだ築城されていないため、ここでいう明石とは船上城のこと。もともと船上城は高山右近が築き、池田時代には輝政の甥・由之が入ったといいます。

 しかし元和2年(1616)に当主・池田利隆が亡くなり、後継ぎとなるべき光政が幼少だったことから、池田家は鳥取へ転封となっています。

 そこで新たに姫路へ移ってきたのが本多忠政でした。おそらく幕府は、播磨という要衝を徳川譜代で固めたかったのでしょう。忠政の娘婿である忠真が明石へ移されたのも、そこに理由があったと考えられます。

 また忠真の姉は、阿波と淡路を領する蜂須賀家へ嫁いでいますから、縁戚関係を利用した地域支配を担わせようとした。そう考えても不思議ではありません。

 そして、忠真が明石へ移されたもう一つの理由は、姫路城に対する後詰と、西国大名への備えにあります。明石は古くから交通の要衝であり、瀬戸内海や明石海峡に面していました。もし姫路城が攻められれば速やかに援軍を出せますし、陸と海が極端に狭くなった明石であれば、敵を食い止めることもできるでしょう。つまり明石に城を築くということは、幕府にとって重要なことだったのです。

 こうして忠真は明石へ入りますが、すでに船上城は一国一城令で破却されており、武家屋敷の数も全然足りません。仕方なく三木などへ家臣を分けるしかなかったようです。


明石城築城

 元和4年(1618)、将軍・徳川秀忠は、忠真に新しい城を築くよう命令を下しました。

「元和四年午の春明石ニ新城を築可申旨、上意ニ而本多美濃守殿右近様御相談、地形見立言上可被成との儀ニ而美濃守明石へ両度御越方々御見分塩屋与申処浜ニ少し入江有之ニ一所、亦明石より西かにか坂与申処高き岡あるに一処、又明石人丸山ニ一所御見立有之、御相談之上人丸山ニ極り」

 これは『本田家記』にある明石城築城のくだりで、本多美濃守とは忠真の岳父・本多忠政のこと。右近殿とは忠政の次男・本多政朝のことです。

 まず城を築く場所として、塩屋・和坂(かにかざか)・人丸山が候補に挙がっていたことがうかがえます。一通り見分した忠真は、二人と相談したうえで人丸山を築城地とすることに決めました。

 人丸山は六甲山系の西端にあたる舌状台地で、当時は歌人・柿本人麻呂を祀る社があったようです。北には剛の池をはじめ谷や川があり、西には明石川が流れていました。西側を守るには好都合な地形だったことがうかがえます。

 また南には海が広がっており、城下町や港を整備することで、東播磨の中心となるべき場所でした。

明石城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 築城工事は元和5年(1619)正月から始まり、幕府から都築為正・村上吉正・建部政長ら、旗本が派遣されて奉行となっています。

 さらに幕府から銀1千貫(およそ12億5千万円)が支出され、武家屋敷の築造などは、小笠原家の自費で賄われたとか。

 確かに明石城は天下普請による築城ですが、従来と大きく異なるのは諸大名を動員することなく、京や大坂の町人たちに請負工事を任せたことです。幕藩体制が確立されつつあった当時、諸大名へ負担を与えることより、経済を活性化させる方が優先されたのでしょう。

 その年の8月には本丸・二の丸・三の丸の普請が完成し、続いて建造物を造る作事へ移行しました。年末には本丸御殿が出来上がり、翌年早々には忠真が入城を果たしています。

 ちなみに明石城には天守台こそあるものの、肝心の天守が存在しません。その理由については諸説ありますが、現在でもわかっていないとか。

・小倉城の天守を移す予定があったが、計画そのものがなくなった。
・幕府からの支出金が底を付いたため、天守まで手が回らなかった。
・平和な時代を迎えたことで、天守は不要だと判断した。
・海上から大砲で狙われる恐れがあったから。

以上のような説があるようです。

明石城の天主台(出典:wikipedia)
明石城の天主台(出典:wikipedia)

山城と平城の構造を併せ持つ明石城

 現在でも構造がよくわかる明石城ですが、築城当初はどんな城だったのでしょうか?

『日本古城絵図』にある明石城図(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『日本古城絵図』にある明石城図(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 まず人丸山に築かれた主要部は、本丸・二の丸・三の丸・西の丸で構成されていて、東西に横並びとなっています。いずれも高い石垣の上に築かれ、その様相はまるで山城のよう。また台地の背後には空堀が掘られ、東からの攻撃を遮断する構造になっていました。

 いっぽう主要部の南にあたる広大なエリアを見てみましょう。現在の芝生広場や、明石トーカロ球場がある辺りですが、藩主の下屋敷や重臣の武家屋敷などがあって、平城の様相を呈しています。現在は内堀しか残っていませんが、かつては外堀もあり、東西約800メートル、南北約900メートルの広大さを誇ったといいます。

 また、城の南西と南には、堅固な枡形が配置され、西からやって来る敵を迎え撃つ構造になっていました。つまり明石城は、最後期に完成した近世城郭でありながら、山城と平城の機能を併せ持つ城だったのです。

 そして天守が築かれなかった代わりに、明石城には無数の櫓が存在していました。まず本丸には4基の三重櫓が建ち、城全体には一重、二重櫓が20基ほどあったようです。(現在は本丸の坤櫓と巽櫓のみ)

 資材については、廃城で不要になった船上城・三木城・高砂城・枝吉城などの木材が流用されたとか。ちなみに本丸南西にある坤櫓は天守の代用とされ、伏見城の遺構が移築されたものと伝わります。

 そして藩主が暮らす本丸御殿は、一部が三階造りだったとされ、華やかな襖絵で彩られていたといいます。三階には「武蔵野の月」、二階には「鹿と紅葉」、広間には「檜林」など、いずれも京都の絵師・長谷川等仁の手によるものです。

 しかし、本丸御殿は寛永8年(1631)の火災で焼失し、襖絵も全て焼けたと考えられてきました。ところが平成8年(1996)、かつて明石城にあったという『雪景群禽図』が、アメリカのオークションに掛けられたことが判明。紆余曲折の末、ようやく日本へ戻されたそうです。

 また築城と並行して城下町の整備も進められました。当時、客分として明石にいた剣豪・宮本武蔵が設計したと伝わり、外堀によって武家屋敷群と町家を分離したといいます。明石駅の南にあり、観光地として名高い魚棚商店街も、武蔵の町割りによって基礎が築かれたといえるでしょう。

10代続いた松平家の治世と、その後の明石城

 寛永9年(1632)に忠真が小倉へ移ったあと、明石藩主は目まぐるしく代わっていきます。

 まず信濃松本から松平康直が明石へ入るものの、跡を継いだ光重が美濃加納へ転封。入れ替わって大久保忠職が明石へやって来ますが、わずか10年で肥前唐津へ移っていきました。

 その後も藩主の交代が続いたあと、天和2年(1682)に越前大野から明石へ入ったのが松平直明です。これは徳川家康の次男・結城秀康を祖とする家で、越前松平家の庶流にあたります。そこから10代189年にわたる治世を経て、明石藩の歴史は幕を閉じました。

 さて明治16年(1883)になると、明石城は早くも城址公園として開設されています。また戦後には野球場や陸上競技場が整備され、長く明石市民に親しまれてきました。しかし、平成7年(1995)の阪神・淡路大震災によって大きな被害を受け、重要文化財である2つの現存櫓が破損。あちこちで石垣が崩れるという事態となります。

 その後は復旧作業が続けられ、平成12年(2000)には元の姿へ戻りました。また2つの櫓を繋ぐ美しい土塀も復元されています。

 ちなみに石垣の修復には、曳家工法という珍しい方法が取られ、いったん櫓を移動させてから石垣が積み直すという作業が行われたそうです。

 現在では市民が集まる憩いの場として、花見や各種イベントなどで人が途切れることはありません。

おわりに

 明石城の本丸は高台にあり、ちょうど明石駅方向を見下ろすことができます。当時は賑わう城下町を眺めつつ、明石海峡から淡路島まで見渡せたことでしょう。そこに立てば、なぜ忠真が明石に城を造ろうと考えたのか?手に取るようにわかるはずです。

 次に高架駅となっている明石駅から、お城を眺めてみましょう。左手に坤櫓、そして右手には巽櫓が建ち、2つの櫓を繋ぐように、白く美しい土塀がまっすぐ伸びています。

 その眺めはまさに壮観。日本の城ならではの美しさを感じることができるでしょう。季節によってライトアップもされていますので、明石城は是非お勧めしたいお城なのです。

補足:明石城の略年表

出来事
元和3年
(1617)
小笠原忠真が信濃松本から明石へ移る。
元和4年
(1618)
将軍・徳川秀忠が、西国に対する抑えとして明石城の築城を命じる。
元和5年
(1619)
築城工事が始まり、年末に本丸御殿が完成する。
元和6年
(1620)
本丸にある4つの三重櫓が完成。
寛永8年
(1631)
三の丸より出火し、本丸御殿などが焼失。
寛永9年
(1632)
小笠原忠真が豊前小倉へ転封。
寛永10年
(1633)
幕府直轄となったのち、松平康直が7万石で入封。以後、藩主が頻繁に入れ替わる。
天和2年
(1682)
松平直明が越前大野から6万石で入封。以後、松平家が藩主を継ぐ。
明治6年
(1873)
廃城令によって明石城が廃され、大蔵省所管となる。
明治8年
(1875)
明石城の建造物が民間へ払い下げられる。
明治16年
(1883)
明石公園保存会が国から土地を借り受け、民営明石公園として開設される。
大正7年
(1918)
兵庫県が宮内省から本丸周辺を借り受け、県立明石公園として開園する。
昭和32年
(1957)
坤櫓と巽櫓が、国の重要文化財に指定される。
平成7年
(1995)
阪神・淡路大震災によって石垣の1/8が崩落。2基の櫓も被害を受ける。
平成12年
(2000)
櫓及び石垣の修復工事が完了。両櫓を繋ぐ土塀も復元される。
平成18年
(2006)
日本100名城に選定される。


【主な参考文献】
  • 播磨学研究所『家康と播磨の藩主』(神戸新聞総合出版センター 2017年)
  • 橘川真一・角田誠『新版 ひょうごの城』(神戸新聞総合出版センター 2011年)
  • 濱田昭生『将軍秀忠が思いを込めて築いた明石城』(東洋出版、2022年)
  • 明石市教育委員会『明石市資料(近世篇)第六集』(1985年)
  • 兵庫県『史跡明石城跡保存活用計画』(2020年)
  • 「明石城」公式ウェブサイト

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  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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