【長野県】松本城(深志城)の歴史 長野県松本市が誇る日本の美しき国宝!

 松本城(まつもとじょう)といえば、天守、乾天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓の5棟が国宝指定を受けており、まさに名城中の名城です。北信濃侵攻の拠点として、甲斐の戦国大名である武田信玄によって整備された深志城(ふかしじょう)は、現存する松本城の前身と伝わっています。

 今回はこの松本城(深志城)の歴史についてお伝えしていきます。

松本城の前身「深志城」

 深志城は小笠原氏一族の島立氏が永正元年(1504)に、信濃守護である小笠原氏が拠点とする林城の支城として建造したと伝わっています。

 松本城のあたりに存在していたことから、その前身とされていますが、深志城から松本城が築城されるにあたり、どのように引き継がれていったのかなどの詳細はよくわかっていません。

松本城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

 戦国時代、林城の小笠原長時を追い出した武田信玄は、山城よりも平城の方が今後の北信濃侵攻の拠点に相応しいと考え、深志城を改修して一大拠点としました。

 天正10年(1582)、織田信長によって武田氏が滅ぼされると、木曾義昌が深志城を押さえ、すぐに上杉景勝の後ろ盾を得た小笠原洞雪が城主となっています。

 さらに小笠原長時の嫡男である小笠原貞慶が旧臣らの支援を得て深志城を奪還。ここで現在の松本城と改名されました。

城主の入れ替わりとともに発展

 小笠原氏が城主に返り咲くも、天正18年(1590)、徳川家康の関東への移封に伴い、貞慶と秀政の父子は古河へ移封。代わって秀吉の命で石川数正が城主となっています。

 松本城に天守が築かれたのがこの石川氏が城主を務めていた時期です。小笠原氏が着手した城郭整備や城下町の拡充を石川氏が引継いだ形です。ただし、大天守の建造年ははっきりわかっておらず、天正19年(1591)から慶長20年(1615)までいくつもの説が提起されています。

 石川数正・康長父子は城下町の整備にも力を注ぎましたが、大久保長安事件に連座し康長の代で改易・御家断絶。その後、小笠原秀政、戸田康長、戸田康直、松平直政、堀田正盛と城主が次々に入れ替わり、水野忠清が城主となってからは、水野氏が6代に渡って城主を務めています。城下町が完成したのは水野氏が城主を務めていた時期です。

 しかし、その水野氏も改易され、松本城は幕府直轄の時期を経て(松代藩の真田氏が管理)、享保10年(1725)再び戸田氏が城主となりました。戸田氏はここから145年間、明治期に至るまで9代に渡り、松本藩主として松本城主を務めています。

 この期間に三度大きな火事が起こり、享保12年(1727)には火事のために本丸御殿を焼失しました(その後の藩主は二の丸御殿で執務を行う)。また安政元年(1854)には安政の大地震によって城内も城下町も被害を受けています。

 最後の城主となる戸田光則の代に至って廃藩置県により松本県となり、戸田氏は東京へ移り、松本城は県用地となったために城郭は破壊され、天守は兵部省が接収しました。筑摩県が置かれると、二の丸が県庁として利用されています。

国宝への指定

 廃城後の明治期には明治5年(1872)に天守が競売にかけられる事態に陥ったり、天守が傾くほど老朽化が進みましたが、地元有志の協力によって買い戻され、明治の大改修が行われました。

 昭和5年(1930)に史跡に指定。昭和11年(1936)には国宝保存法によって国宝に指定されました。戦後の文化財保護法によって改めて国宝指定を受けています。

 公園化も戦後に進み、昭和23年(1948)には二の丸を中央公園とする事業が始まり、二の丸の南には大きな噴水が増設されたり、三の丸には児童遊園も置かれました。

 近年では平成11年(1999)に太鼓門が復元されています。この年、松本市教育委員会は、松本城および周辺整備計画を策定。現在も史跡整備が進められています。ちなみに大手門二の門と、南門は市内に移築されて現存しています。

あとがき

 信濃国の重要な拠点ということもあり、戦国時代から江戸時代にかけて城主がめまぐるしく変わっているのが松本城(深志城)の特徴でしょう。しかも石川氏が完成させた戦国時代の天守がそのまま残って現存しています。

 このような城は日本全国に12しかありませんので、松本城の希少価値の高さがよくわかります。現存する天守の古さでは、犬山城、丸岡城に次三番目です。日本100名城の中でもまず優先して見ておくべきお城の筆頭こそが松本城でしょう。

補足:松本城(深志城)の略年表

出来事
永正元年
(1504)
島立右近貞永によって深志城が築かれる
天文19年
(1550)
武田信玄が侵攻し、小笠原長時より城を奪う
天正10年
(1582)
武田氏が滅び、木曾義昌が城に入るが、その後に小笠原洞雪に渡り、さらに小笠原貞慶が奪い、松本城と改称
天正18年
(1590)
豊臣秀吉の指示により、石川数正が城主となり、小笠原氏は古河へ移封
文禄2年
(1593)
松本城天守の建築がこの時期と予想される(1591年~1615年まで天守建造年の説がある)
慶長18年
(1613)
石川康長が改易となり、小笠原秀政が城主となる
元和3年
(1617)
小笠原秀政父子が大坂夏の陣で戦死した後、戸田康長が城主となる
寛永10年
(1633)
松平直政が城主となり、天守増設
慶安2年
(1649)
水野忠職が城主として一斉検地を行う 水野氏が城主となっている期間に城下町が完成
享保10年
(1725)
水野忠恒が改易となり、翌年に戸田氏が再び城主となる
享保12年
(1727)
火事により本丸御殿焼失し、古山地御殿を拡張工事
安永5年
(1775)
松本町大火(餅屋の火事)で二の丸、三の丸、城下町南部が焼ける
安政元年
(1854)
安政の大地震によって被害を受ける
元治2年
(1865)
松本町大火(山城屋の火事)で、城下町南部が焼ける
明治2年
(1869)
戸田光則が版籍奉還し、松本藩知事となる
明治4年
(1871)
廃藩置県で松本県となり、城郭は破壊され、天守は兵部省が接収 筑摩県が設置されると二の丸が県庁となる
昭和11年
(1936)
国宝保存法により国宝(旧国宝)指定
昭和27年
(1952)
文化財保護法により現在の国宝に指定
平成11年
(1999)
太鼓門が復元される


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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