貴族を支えた庶民のお仕事 ~平安時代の労働

田中有美 編『年中行事絵巻考 巻3』より。(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
田中有美 編『年中行事絵巻考 巻3』より。(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
 華やかな貴族が注目されることの多い、平安時代。しかし、平安時代の貴族の数は、わずか数百人ほど。貴族の生活を支えていたのは、紛れもなくそれ以外の庶民たちでした。

 歴史に名を残すこともなく働き、生活していた市井の人々。彼らはどのような仕事をして暮らしていたのでしょうか。今回は、平安時代の庶民のお仕事にスポットを当てて紹介します。

庶民のお仕事

 平安時代の庶民とはどのような人々で、どのような暮らしをしていたのでしょう。

 天皇をトップとして、后や摂関、そして三位以上の位階をもつ殿上人は、上級貴族と呼ばれます。そして、紫式部の父・藤原為時(ふじわらのためとき)のように、地方の政治をつかさどる受領などは、四位・五位の位階をもつ中級貴族とされます。

 そうした貴族たちに仕える六位の侍品(さむらいぼん)は「下衆(げす)」と呼ばれ、さらにその下には、位をもたない庶民の人々が存在していました。

 ここでは、庶民たちがどのようなお仕事を主に行っていたのかを見ていきます。

農業

 平安時代、庶民のお仕事として多かったのは、農業でした。

 この頃には畑での二毛作が広まりはじめ、田畑においては、稲以外に麦や粟、大豆、小豆なども作られていたようです。

 当時、荘園の領主から土地を借りて耕作し、税を負担する有力農民のことを「田堵(たと)」と呼びました。田堵は時代が下るにつれてその力を強め、平安時代後期には名主(みょうしゅ)と呼ばれる身分となります。

 農民たちが荘園の領主に納めていた年貢の割合は、全収穫の3~5割程度であったと考えられています。さらに、作人(さくにん)の下について耕作を行う下作人(げさくにん)の場合、手元には2割以下しか残らないこともあったようです。

 また、夫役(ぶやく)という労働を課せられることもあり、農民にとって大きな負担となっていました。

 農民の生活は決して楽とは言えず、洪水や地震、飢饉などによって被害を受けることも多々あったようです。とはいえ、年貢を徴収されないために密かに作られた「隠田(おんでん)」や、厳しい年貢の取り立てなどを行う国司について、農民側が京都へ押し寄せて訴えるといったことも起こっていました。

漁業

 平安時代になると、農業などとの兼業ではなく、漁業を主にする人が増えはじめます。

 漁の方法には、今でも一般的に行われている釣りや、銛(もり)などを使って水中の魚を突いて獲る「突漁」、複数人で網をかけて魚を集める「網漁」といったものがありました。

 そして、海女(海夫)が海の中へもぐってアワビなどを獲る「潜水漁」や、鵜(う)を使ってアユなどを獲る「鵜飼漁」もこの頃からすでに行われていました。

 獲れる魚の種類としては、平安時代の貢物が詳細に記されている「延喜式」において、カツオ、タイ、フナ、サバ、サケといった魚が諸国から運ばれていたことが分かっています。

 このように、天皇や寺社へ供御(くご/天皇や皇族の飲食物)を納める人々は「供御人(くごにん)」と呼ばれ、交通税などが免除されており、独占的に魚を獲ることも認められていました。

林業

杣工(そまこう)

 杣(そま/材木を伐るための山)で働く労働者のことを杣工といいます。彼らは農民とは違い、夫役などの代わりに、杣を所有する寺社の労働などを請け負っていました。

 また、伐り出した材木を運ぶ際にも、労働力として庶民が駆り出されました。

 巨大な材木が山奥から都へ移動するのには、川に木を流して筏を組み、下流まで運ぶという方法がとられ、熟練の筏師によって行われていました。

手工業

木工(もく/こだくみ)

 今でいう「大工」のお仕事ですが、当時の木工は、宮廷貴族や領主といった、庶民ではない人々の家やお寺などの建築・修理を請け負っていました。

 律令制の頃は、「木工寮(こだくみのつかさ)」と呼ばれる役所にて宮中の造営などが統轄されており、現場の指揮を行う人を「大工」と呼んでいました。

 当時、庶民の家は、自分たちで建てることが一般的で、庶民が大工を雇って建築や修理などをしてもらうようになったのは平安時代末期からとされています。

織物

平安時代の織物として挙げられるのは絹と麻でしたが、当時の庶民にとって一番身近な布は麻で、絹はもっぱら貴族たちのためのものとされていました。

 宮中には織部司(おりべのつかさ)という工房があり、貴族のための織物が作られていました。
ただ、農民たちも、農閑期には副業として織物を作り、秋に税として納めるといった暮らしをしていました。

 これらの他にも、陶器作りや紙生産、牛・馬・鹿の皮細工など、さまざまな手工業が営まれています。

商人

 平安時代には、京都や地方において市が立ち、さまざまな商人が集まっていました。

行商人

 諸国をまわり、各地の物産を仕入れて売り歩きながら旅をし、生計を立てている人々のことです。
当時は、行商人が持ってくる各地のお土産話や宮中事情などは、とても興味深い娯楽となったことでしょう。

販女(ひさぎめ)、市女(いちめ)

 魚介類を桶に入れ、薪などを束ねて、頭上に載せて売り歩く女性の行商人のことを販女と呼びます。販女たちは家々をたずねて回りながら、商品の販売をしていました。

 これに対し、市が開かれているときに商品を持ち込み、商品を運ぶために使っていた道具へ商品を並べて商売をする女性のことを「市女」と呼びました。

仕事をサボる庶民たち

 豪華で裕福な上流貴族のイメージとは対照的に、貧しい庶民たちは真面目に働いていたのかと思いがちですが、どうやら庶民にも不真面目な人はいたようです。

 平安時代に書かれた『小右記』や『御堂関白記』を見ていると、時折出てくるのが「懈怠(けたい・けだい/怠ける、怠ること)」という言葉。

 例えば、長和5年(1016)の賀茂臨時祭の際、藤原道長が舞を奉納するときに、琴を持つ役割だった雑色3人が姿を見せず、数時間経ってもあらわれなかった上、事情を聞いてくるように命じた部下も遅れたそうで、道長はこれにたいそう怒り、除籍(じょしゃく/名簿から除くこと)をした、と書かれています。

 とはいえ、仕事を怠ってしまったときは、基本的に怠状(たいじょう/おこたりぶみ)などを提出すれば許してもらえることが多かったようです。

貴族からのさげすみ

 庶民と上級貴族の間には、決して越えられない、大きく深い溝がありました。上級貴族の宴会においてしばしば行われていたのが、「鳥喰(取り食み/とりばみ)」という風習です。

 それは、宴会などのあとで、残った食べ物を庭へ投げ、下人などに食べさせること。また、その残飯を食べる者のことをいいます。

 平安時代の随筆集『枕草子』一三七段では、「清涼殿の御前の庭で掃部寮(かもんづかさ/設営などを担当する官人)が畳を敷いて宴会をした後、貴族たちが席を立つやいなや、取り食み(とりばみ)という者が、男がするのさえ嫌な感じなのに、女も出てきて食べ物を取っている」と記されています。

 また、絵巻などに描かれる上級貴族は大抵ふっくらとしていて、それこそが当時の美形とされていますが、庶民はひどく痩せた姿で描かれることが多く、ここにも身分の差が明確に表れています。

 高貴な身分の人が、庶民と交流する……というエピソードは、物語の中ではよく見られます。しかし、実際には本当に少数派だったのだろうということがうかがえますね。

おわりに

 大河ドラマ「光る君へ」を見ていても、庶民と貴族には大きな隔たりがあるのだなと感じます。

 庶民たちの実際の暮らしを、完全に再現するのは難しいこと。それでも、貴族の日記や物語だけでは見えてこなかった、膨大な数の庶民たちの暮らしが、確かにそこにあったんだなと思えますね。

 数え切れないほどの人々の想いや、それぞれの人生が積み重なり、崩れ、また積み重なり……といったことを繰り返しながら、歴史は連綿と続いていくのだなと、なんだかしんみりしました。

 現代を生きる一庶民として、これからも日々を大切に生きていきたいものです。


【主な参考文献】
  • 倉本一宏『平安京の下級官人』(講談社、2022年)
  • 井上幸治『平安貴族の仕事と昇進: どこまで出世できるのか』(吉川弘文館、2024年)
  • 奈良本辰也 等編『図説日本庶民生活史 第2巻』(河出書房新社、1961年)
  • 『日本文学大系 : 校註 第8巻』(誠文堂、1932年)
  • 河添房江、津島知明『新訂 枕草子 上 現代語訳付き』(KADOKAWA、2024年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
なずなはな さん
民俗学が好きなライターです。松尾芭蕉の俳句「よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな」から名前を取りました。民話や伝説、神話を特に好みます。先達の研究者の方々へ、心から敬意を表します。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。