摂関期の貴族のお仕事 ~平安時代の労働
- 2024/09/10
平安時代、貴族はどのようなお仕事をしていたのでしょうか。大河ドラマ「光る君へ」でも描かれているように、平安時代の貧富の差は激しいものでした。貴族の間でも、殿上人とそれ以外では、労働の内容についても大きな差があったのです。
今回は、平安時代の中でも特に身分格差が激しかった「摂関期の貴族のお仕事」にスポットを当て、上級・中級・下級貴族それぞれのお仕事についてざっくりと見ていきます。名のある人も、それ以外の人も重ねてきた数多の苦労をしのびつつ、歴史をひもといていきましょう。
今回は、平安時代の中でも特に身分格差が激しかった「摂関期の貴族のお仕事」にスポットを当て、上級・中級・下級貴族それぞれのお仕事についてざっくりと見ていきます。名のある人も、それ以外の人も重ねてきた数多の苦労をしのびつつ、歴史をひもといていきましょう。
貴族のお仕事は政務と行事の遂行
平安時代は、今よりも「政治」と「年中行事」が強く結びついている時代でした。年中行事の例としては、お正月の白馬節会(あおうまのせちえ)や御斎会(ごさいえ)、旧暦四月の賀茂祭(かものまつり)などがあり、神社の祭礼や仏教行事も含まれています。
当時、年に100以上もあった宮中の年中行事は政治の一部と考えられており、天皇をトップとした朝廷が主催することで、国家の安寧を保つとされました。滞りなく年中行事を手配し、つつがなく遂行することは、朝廷で働く貴族たちの間においても重要だと考えられていたのです。
貴族が働く二官八省(にかんはっしょう)
朝廷は、天皇のもとに摂政・関白を置き、その下へは神祇祭祀を司る「神祇官(じんぎかん)」と、国の政務を執り行う「太政官(だいじょうかん/だじょうかん)」の二官が置かれていました。 太政官には、「少納言局(後に外記局となる)」と「左・右弁官局」が置かれ、左弁官局には四つの省(中務省・式部省・治部省・民部省)、右弁局には四つの省(兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省)があり、これを八省と呼びます。
これ以外にも、内裏や天皇の身辺警護などを担当した「左・右近衛府(このえふ)」、「左・右衛門府(えもんふ)」、「左・右兵衛府(ひょうえふ)」、「検非違使庁(けびいしちょう)」などが置かれています。また平安京の外では、九州地方の行政をおこなう「大宰府(だざいふ)」、各国の国府などがありました。
平安時代の貴族たちは、こうした役所や詰め所において働いていたのです。
上級貴族(公卿)のお仕事
いわゆる上級貴族とされる人々は、太政大臣、左・右大臣、内大臣、大・中納言・参議などのいずれかの官職であり、三位以上の位階を持つ貴族のことです。こうした人々を、「公卿(くぎょう)」と呼びます。公卿は天皇が過ごす清涼殿において、殿上の間への昇殿を許されており、天皇の近くで仕え、国政にかかわる重要なポジション。現代にたとえると、閣僚に近い立場といえるでしょう。
公卿のお仕事は、政務や行事において何を行うべきか判断したり、指示を出したりといった、決裁者としての役割が主なものとなっています。
そんな公卿たちが担っているお仕事の一部を、いくつか見てみましょう。
上卿(しょうけい)
公卿のお仕事には、それぞれの政務や行事の執行にともない、リーダーシップをとる「上卿(しょうけい/じょうけい)」という役割があります。すべての公卿がすべての政務や行事に参加するという決まりはなく、自分が担当する政務や行事に参加すれば良いということですね。
ただ、上卿になると、必ずその政務・行事に参加しなければならず、上卿が欠席すると日程自体が延期することもあり、責任の重さがうかがえます。
陣定(じんのさだめ)
大河ドラマ「光る君へ」では、公卿たちがずらりと並んで会議をするシーンがよく登場します。これを「陣定(じんのさだめ)」といい、重要な議題について公卿たちが一人ひとり意見を述べ、話し合うものでした。その内容は奏文(そうぶん/天皇に意見を申し上げる文章)にまとめられ、天皇や摂政・関白に奏上され、決裁を受けて施行されるという流れでした。
中級貴族から公卿への出世
当時、最高の職位である公卿へ出世するのは貴族のあこがれでしたが、それも身分がすべて。特に摂政・関白などの子息や、賜姓源氏(しせいげんじ/源氏の姓をもらって皇族から臣下の身分になること)が急速に出世することはままあることで、こうした特権を蔭位の制(おんいのせい)と呼びました。もちろん、世の中には蔭位の制にあずかれない貴族のほうが多かったため、他の人々はこれを超越(ちょうおつ)といって嫌っていたようです。
大河ドラマ「光る君へ」第7話や第9話では、当時蔵人頭だった藤原実資が「わしを公卿にしておけば……!」と何度も悔しがるシーンが印象的でした。実資も将来的には右大臣までのぼりつめるのですが、優秀である自分こそまずは出世させるべきだという強い気持ちがうかがえますね。
中級貴族のお仕事
中級貴族は、諸大夫(しょだゆう)と呼ばれる四位・五位の貴族であり、左・右弁官局につとめる弁官や、受領(ずりょう)などの地方官といった官職を含みます。諸大夫は、現代で言うと中間管理職といった立場です。行事や政務において、リーダーである上卿の指示のもと先例を把握し、それらを取りまとめて上卿の決裁を仰ぎ、OKとされたら部下へ文書を発給させたり、行事の準備をさせたりといった指示を出します。
勘申(かんじん)
当時は、何事にも「先例に準じる」ことが重要とされていました。ここで言う先例とは、過去に書かれた日記類や、前任者の意見をさします。また、行事などの日程が良いか悪いかなど、延期を判断することも含みます。これらを「勘申(かんじん)」と呼び、物事を決定する時には基本的に行われるものでした。
諸大夫たちは、自分が担当する行事や政務の先例を把握するため、部下に調べさせたり、前任者を訪ねて聞いたり、陰陽寮(おんようりょう)に占わせたりするなどしていたのです。
諸大夫の身分であっても、先例をふまえずに行事などで不適切なことをしてしまうと、他の貴族から指を弾かれたり咳や唾を飛ばされたりしてミスを指摘され、日記に「故実を知らざる者」などと書かれてしまうこともありました。
下級貴族のお仕事
下級貴族は位階が六位以下の人々で、侍(さむらい)と呼ばれました。ここで言う侍とは「侍品(さむらいほん)」のことで、後の時代のような武士をさすものではなく、皇族や貴族に仕える官人のことをさしています。侍品は中級貴族などに出世することはなく、一生を同じ職で通したり、途中で職を失ったりするなど、庶民に近い身分の人々でした。
軍事に携わる武官では、衛士(えじ/宮中の警護)や近衛舎人(このえのとねり/大内裏や宮廷の警護にあたる下級武官)、帯刀舎人(たちはきのとねり/東宮の護衛)といった役職が含まれます。
事務方の実務を担当する文官では、史生(ししょう/文章の作成などを行う)や使部(つかいべ/官庁の雑用係とされた)、官掌(かじょう/設備の管理や整備を司る)といった役職が含まれました。
こうした下位の役人たちは分番(ぶんばん)と呼ばれ、番上(ばんじょう)という交代制で勤務することとなっており、律令では年間の出勤日数が140日以上と定められていましたが、摂関期になると、どのくらい守られていたのかは、はっきりとしていません。
激務に追われる下級役人
当時、一年のうち最も行事が集中するのは一月で、節会(せちえ)や天皇の行幸(ぎょうこう)、御斎会(ごさいえ)や除目(じもく)、寺院の修正会(しゅしょうえ/一月に行われる法会)などが続き、貴族たちも大忙しの月でした。例えば法会の出欠を取る役にあった六位の権少外記(ごんのしょうげき)、清原重憲(きよはらのしげのり)は、元日から毎日どこかしらに出仕しており、十五日にようやく休暇を取ったあとも数回しか休めていないと日記に書いているほどです。
もちろんお正月は上級・中級貴族も忙しいのですが、実務を担当する下級貴族たちにより多くの負担がかかっていたことは間違いないでしょう。
職を失った貴族
紫式部の父である藤原為時(ふじわらのためとき)は、花山天皇の退位とともに式部丞・六位蔵人の官職を失い、10年もの間、散位(さんみ/無職)の状態でした。大河ドラマ「光る君へ」では、為時が無職の間は家人に暇を与えたり、家の畑の世話を紫式部が手伝っていたり、紫式部の弟・惟規の乳母である「いと」が仕立物の注文を受けたりして、日々をしのいでいた様子が描かれています。
地方の国司も4年という任期がありましたが、少ない枠に対して官職を望む人は数多であり、無職のまま困窮する貴族も数多く存在していました。
おわりに
華やかな国風文化、きらびやかな貴族社会というイメージがある平安時代。関白の地位に登りつめ、栄華をきわめた一部の人々にとっては確かに輝かしい時代でしたが、一方で激務に追われ出世の道も厳しい中級・下級貴族たちの存在のほうが圧倒的に多いという事実もあったのでした。
貴族たちは、そのような合間に謀略をめぐらせたり、日記を書いたり、和歌を詠んだり、宴会に参加していたと考えると、また違った視点で当時の文化を眺められるかもしれませんね。
【主な参考文献】
- 倉本一宏『平安京の下級官人』(講談社、2022年)
- 倉本一宏(編)『小右記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』(KADOKAWA、2023年)
- 井上幸治『平安貴族の仕事と昇進: どこまで出世できるのか』(吉川弘文館、2024年)
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