「長谷川宗仁」海外にも野心を示した武将茶人!

帯刀コロク
 2021/03/23

長谷川宗仁のイラスト

戦国時代から安土桃山時代にかけて、茶の湯が武将たちにも愛好されたことはよく知られています。 そしてすぐれた茶人が、専門の役職をもって武将に召し抱えられるというシステムができあがりました。

最たる例は茶聖とも称される「千利休」ですが、武将自身も彼らの門弟として茶の湯を習い、独自境の地を切り開いていくことになります。

大名茶人としては「古田織部」や「小堀遠州」などが有名ですが、知名度が高くなくても極めて重要な役割を果たした武将茶人があまた存在しました。そのうちの一人が「長谷川宗仁(はせがわそうにん)」です。

軍人としての「武」の力と、茶人としての「文化」の力とを併せもった宗仁は、歴史上いくつかの重大局面に関与していました。 今回はそんな、長谷川宗仁の生涯について概観してみることにしましょう!

長谷川宗仁とは

生まれ

天文8(1539)年に生まれた長谷川宗仁は、京都の有力な町衆であった「長谷川宗昧」の一族と考えられています。通称を「源三郎」、諱を「宗仁(むねひと)」といい、「宗仁(そうにん)」は出家した後の法号となっています。

出身地は定かではなく大和国(現在の奈良県あたり)という説もありますが、いずれにせよ畿内の出で茶の湯に親しむことのできる環境と社会的地位があったことが想像されます。

生涯

宗仁の前半生についてはよくわかっていませんが、茶の湯は「武野紹鷗」に師事したとされています。 また、のちに「天下三宗匠」と並び称される「今井宗久」と親しく、同じく「津田宗及」の日記にもたびたびその名が現れることから、堺町衆とは近しいポジションにあったものと思われます。

その事績が歴史の表舞台に浮上するのは永禄12(1569)年から元亀元(1570)年にかけてのことで、今井宗久とともに織田信長と山名祐豊の会談を実現させました。

山名祐豊は前・但馬の領主であり、信長に敗北して以来堺に身を寄せていた人物です。この会談は祐豊が織田軍の西進に加勢することを条件に但馬領主への復帰を保証するものであり、このことによって信長は但馬の「生野銀山」の権益を手中にしました。

祐豊は帰国だけは許されたものの、即時知行を回復したわけではなく、また銀山の知行についてはついに返還されることはありませんでした。

この祐豊の但馬帰国に宗仁が同道していたとみられ、元亀元(1570)年はじめに今井宗久からその任を労う書状を受け取っています。生野銀山の経営権をめぐる動きには宗仁・宗久ともに深く関わっており、同年4月には銀山横領を阻止する使者として両名が但馬入りしています。

また、天正元(1573)年に宗仁は京都・下京で信長の家臣たちとともに米や銀子の徴収を実施しています。

茶人であった宗仁は、このようにして徐々に信長の家臣ともいえるポジションにおさまり、武士化の道をたどります。同年8月には信長の命により、越前で敗死した「朝倉義景」の首級を京に送り、獄門にかけるという刑罰的な任務もこなしています。

天正6(1578)年元旦、信長が安土で重臣らを招いて開催した茶会に宗仁も出席していることから、この時期には織田軍の要人としての処遇を受けていたことが推察されます。

因みにこの茶会で招かれたのは「織田信忠」「武井夕庵」「滝川一益」「丹羽長秀」「細川藤孝(幽斎)」「明智光秀」「荒木村重」「羽柴秀吉」等といった、中核を担うそうそうたるメンバーであったことが注目されます。 また、同月4日に信長に重用された小姓の「万見重元」の名物茶器披露にも列席しています。

天正10(1582)年の甲州征伐では信長に近侍して従軍しており、戦後には「武田勝頼」「武田信勝」「武田信豊」「仁科盛信」の首級を京都・一条通の辻で獄門にかけています。

前述のとおり宗仁は朝倉義景の首級についても獄門を実行しており、何かこうした刑務に関わる役職を担っていたのかもしれません。

同年6月に本能寺の変で信長が倒れると、真っ先に使者を立ててこの変事を中国地方攻略中の秀吉に報告したのが、宗仁だったとされています。秀吉はこの迅速な情報伝達などによって中国大返しを成功させたともされ、宗仁はこののち秀吉に側近として仕えることになります。

天正17(1589)年には京都・伏見の代官に任命され、実務官僚としての盤石の地位を手にします。 伏見は豊臣の直轄領であったことからも、秀吉の宗仁に対する信頼のほどがみてとれるようです。

天正19(1591)年、長崎の貿易商であった「原田喜右衛門」なる人物が宗仁を通じて秀吉に接触。 フィリピンへの日本従属勧告を提言するということがありました。

宗仁は喜右衛門の発案に賛同し、これを秀吉に取り次いだためマニラ総督に従属勧告の書状が届けられることになりました。

豊臣政権が掌握しようとしたこのフィリピンとの交易は「ルソン貿易」と呼ばれ、当時国内で高い人気を博していた「ルソン壺」などの独占流通を企図したものでした。そこにはポルトガルやスペインなどとの交易に関する競合があり、宗仁はこれらの対応にも関わってフィリピン使節の饗応などを行い、文禄3(1594)年には自らマニラへと渡航もしています。

秀吉の朝鮮出兵のための前線基地として建設された肥前名古屋城の工事では、宗仁は作事奉行として本丸数寄屋などの建築に関わりました。その前年には明国からの使者を饗応する責任者でもあり、外交の窓口としても重大な任務を任されていたことがわかります。

また、慶長3(1598)年に開催された醍醐の花見でも秀吉に近侍するなど、一貫して深い信頼を寄せられていた様子をうかがうことができます。

秀吉が死去し、1600年(慶長5年)に関ケ原の戦いが勃発すると宗仁は西軍に参加、しかし子の「長谷川守知」が佐和山城の援軍に赴いた際に東軍に内通。この武功によって戦後も領知を安堵のうえ赦免されています。

宗仁は徳川家康に仕え、「北政所」の番として余生を過ごしました。慶長11(1606)年に68歳で没し、宗仁自ら開基した京都・長徳寺に眠っています。

三英傑に仕えた、乱世の茶人

長谷川宗仁という人物の歴史を振り返ると、絶妙なバランス感覚で信長・秀吉・家康の三英傑に仕え、戦国の世を生き延びたことが見てとれます。

銀山の経営や外国使節への対応実績などからは、実務家としての高い能力をうかがえます。 また、茶人としても信長や秀吉に重用されたことから、相当の技量とセンスの持ち主だったことも想像されるでしょう。

宗仁はほかに絵画の分野でも高く評価されており、「法眼」の僧位も受けています。1581年に行われた「松井友閑」の茶会では床の間に宗仁の絵がかけられたと伝えられ、同時代の文化人から直接の評価を受けていたようです。

伝承によると肥前名護屋城の本丸障壁画は、「狩野光信」と宗仁とが共同で手がけたとされており。茶の湯にとどまらない文化人としての高度な素養を身につけていたことがうかがえます。

まとめ

長谷川宗仁という人物は決して知名度が高いわけではありませんが、殊に織田・豊臣の政権にとって非常に重要な実務的役割を果たしてきたことがわかります。

現代風にいえば支店長と法務と営業ができ、政権の顔として接待もこなせるというハイパフォーマンスを発揮した人材といえるかもしれません。

個人の能力が評価される風潮にあった当時において、茶人として武家政権に深く入り込むことに成功した代表的な事例と捉えることもできるでしょう。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
  • 『日本歴史地名大系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 「十六世紀末の九州・東南アジア貿易:加藤清正のルソン貿易をめぐって」『史学雑誌 118巻 8号』 中島楽章 2009 公益財団法人史学会

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...


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