「備中高松城の戦い(1582年)」秀吉が水攻めで毛利軍の防衛ラインを破壊!
- 2020/05/16
羽柴秀吉による「水攻め」で有名な備中高松城の戦いは、奇抜な作戦で大勝利を収めたかのように思われがち。でも実際は、戦の流れは薄氷を踏むような危うさをはらんでいました。
「血を流さずして勝つ」を実践しようとする秀吉と、毛利にひたすら忠義を尽くす備中高松城城主・清水宗治によって展開された、絵巻物のような合戦のストーリーを解説いたします。
中国攻めで毛利方と衝突
信長から中国方面の攻略を任された羽柴秀吉は、播磨平定後に但馬や因幡にも進出。さらには毛利方であった備前の宇喜多直家を寝返らせるなど、毛利方に属する城を攻略していきます。
一方の毛利輝元は、備前と備中の国境近くに対織田軍の防衛ラインとなる「境目七城」を築いていきました。この境目七城とは、北から宮路山城、冠山城、備中高松城、加茂城、日幡城、庭瀬城、松島城の七城であり、その主城となるのが備中高松城でした。
城主の清水宗治を味方につけようと試みるも、失敗に
こうした中、秀吉は天正10(1582)年3月に播磨、但馬、因幡の三ヵ国の軍勢を率いて姫路を出発。4月4日には宇喜多直家・ 秀家父子に迎えられて岡山城に入ります。
秀吉は黒田孝高と蜂須賀正勝の二人を使い、備中高松城主の清水宗治を味方に引き入れようと試みますが、拒絶されています。その背景には宗治の毛利に対する強い忠誠心があったようです。
備中高松城を包囲
地道に支城を落とし、備中高松城を孤立に追い込む作戦に
宗治の調略には失敗したものの、秀吉は同時に他の境目七城にも調略を仕掛けていました。実際、日幡城の上原元祐は調略に応じています。しかし、毛利方の結束力が堅かったことから、境目七城を順々に攻略して備中高松城を孤立させる作戦しかなかったようです。
秀吉は4月25日に冠山城を陥落させており、27日には備中高松城にも攻撃を仕掛けています。
備中高松城では、宗治の娘婿・中島元行が「城内から出撃して戦い、討ち死にするなら、後世の聞こえもいいだろう」と提案。押し寄せてくる秀吉軍に待ち伏せしていた鉄砲隊200余名が襲い掛かりました。
城を囲む沼地に足をとられ、思うように身動きの取れない秀吉軍。これを元行ら伏兵が追い詰め、さらに城主・宗治までも打って出ると、秀吉軍は大混乱に陥りました。高松城の兵があらかじめ掘っていた落とし穴に落ちて命を落とすものも数百人に上りました。
このとき討ち取られた秀吉の兵は426人、対する宗治の兵は97人だったというので、緒戦は秀吉軍の敗北だったようです。
続いて5月2日には宮地山城が陥落、亀山城では秀吉に服属する動きがみられました。これを知った毛利方の忍山城では桂就宣や岡元良らが亀山城を取り戻そうと調略を行っています。
高松城の地形を逆手に取る「水攻め」を決断
さらに敗退した秀吉軍を焦燥させるような知らせが届きます。毛利が4万の援軍を備中高松城に送ることを決定したというのです。
戦が長引けば、秀吉軍は窮地に陥ってしまうでしょう。しかし、敵の城は沼地や沼田によって守られており、攻めようにもぬかるみに足を取られて攻めがたい。
秀吉は力攻めをあきらめ、この地形を逆手に取る作戦に出ました。備中高松城の南を流れる足守川に堤防を築き、せき止めた水を流し込んで城を水没させる「水攻め」です。
一説には、水攻めは黒田孝高の策とも言われていますが、日本で初めての「奇策」。果たしてうまくいくのでしょうか。
備中高松城の水攻め
莫大な経済力で突貫工事を成し遂げる秀吉
堤防を築くといっても、人が集まらないことには話になりません。なにしろ、秀吉が作ろうとしていたのは長さ36町(約2.8㎞)、高さ4間(7m)もの大がかりな堤防です。
そこで秀吉は「土俵1俵につき、銭100文、米一升」という破格の条件を提示。土俵を担げば担ぐほど稼げるシステムです。狙い通り、近隣の村人たちは築堤にこぞって参加しました。
秀吉は将兵2000人を配置すると、一晩で城の周りに塀をかけさせます。さらに18mごとに櫓を設けると、城からの攻撃に応戦しながら、塀の陰でどんどん工事を進め、5月8日から昼夜を問わず築堤を進めた結果、秀吉軍はわずか12日間の突貫工事で堤防を完成させてしまうのです。
これだけ大規模な工事を成し遂げることができたのは、家臣の中に土木工事の技術者集団がいたためと考えられています。しかし、それも土台となる信長と秀吉の莫大な経済力があってこそ。工事に費した銭は63万5,040貫文、米は63,500石とも言われています。
それでも、無理な力攻めで味方に多数の犠牲者を出すよりも、堤防を築いて確実に攻める方が安いと秀吉はみていたのでしょう。
堤防に水を引き入れ、高松城を水没させる
秀吉は備中高松城を見下ろす丘陵に付城を築くと、自らの陣を張りました。さらに堤防1㎞ごとに見張り櫓を設け、城内に兵糧や兵の補給ができないよう見張らせます。
いよいよと城を囲む湿地帯へ川の水を引き入れると、ちょうど梅雨時だったこともあり、みるみるうちに備中高松城が水没していきました。
5月21日には備中高松城付近に毛利の援軍4万が到着し、輝元は猿掛山に、吉川元春は岩崎山に、そして小早川隆景は日差山に陣を張りました。しかし、水浸しの城を前にどうすることもできませんでした。
老獪に講和交渉をすすめた秀吉
秀吉は水攻めを行いつつ、毛利側との講和交渉にも着手していました。
毛利側からの交渉の使者に立った外交僧・安国寺恵瑣は「備中、備後、美作、稲葉、伯耆の5か国を割譲するので、高松城の包囲を解いてほしい」と申し入れます。しかし秀吉は「備後以外は毛利の土地と言えない」とこれを蹴りました。
また、秀吉は宗治の切腹の条件にもこだわりを見せたため、なんとか宗治を救いたい毛利方とは物別れに。
こうした状況の中、6月2日に京都の本能寺で信長が横死。戦の流れも大きく動き始めます。
毛利方への密書から信長の死を知る
6月3日の夜半、秀吉の陣に密書を持った一人の男が紛れ込みました。男が携えていた密書は6月2日の本能寺の変を伝える内容でした。
通説によると、男は本能寺の変の首謀者・明智光秀が放った密使で、毛利方の小早川隆景の陣を目指していたところを、誤って秀吉の陣所に紛れ込んだとされています。
しかし、少々これには疑問が残ります。いくら何でも、敵味方の陣所を間違えるなんてことがあるのでしょうか?京都にいた長谷川宗仁の使者から信長の死を伝え聞いたという説もあるようですが、真相ははっきりしません。
しかし、クーデターの首謀者である光秀が、反信長勢力である毛利方になんらかの方法でコンタクトをとろうとしたのは必定でしょう。秀吉が各方面からの情報を相当警戒しながら戦にあたっていたのだとすれば、その網にたまたま密使が引っ掛かったのかもしれません。
信長の死を知った瞬間、秀吉は茫然自失の状態に陥ったといいます。そのとき、秀吉の背中を押したのが軍師・黒田官兵衛です。
黒田官兵衛
これは天のご加護。天下取りの好機です。直ちに畿内へ取って返し、光秀を討つべきです
秀吉はこの言葉に冷静さを取り戻し、すぐに次の行動へ移ります。
信長の死を秘匿して、講和交渉を進める
秀吉は毛利方に信長の死が知られることを恐れ、密使の口を封じるとともに、周囲の警備をより厳重にし、夜にも関わらずに交渉を進めるために安国寺恵瓊を呼び出しました。
秀吉はそれまでの講和条件をゆるめ、領土については備中・伯耆の折半でよいとし、高松城城主・宗治の切腹と引き換えに、城の兵たちの命は助けるという条件を提示。
これに宗治は、「自分の首一つで主君が安泰となり、城兵の命を助けることができるなら安いものだ」とこれを受け入れ、講和が成立するのです。
城主・宗治、三万もの兵が見守る中、船上で切腹
宗治は秀吉に使者を送り、「小舟を一艘いただけるなら、来る4日に切腹をしたい」と申し入れると、これに対して秀吉は、「無二の忠士で、比類なき者。何事にも望みに任す」と酒肴と極上の茶を高松城に送ります。
宗治は高松城の本丸に城兵たちを集めると、最後の宴を催しました。一人一人と盃を酌み交わし、互いに別れを惜しんだことでしょう。しかし宗治を慕う家臣の中には、死出の山の供をしたいと望む者も現れました。
切腹の前日、宗治が使者に請われて老臣・白井治嘉の屋敷に足を運ぶと、治嘉は「明日は切腹とお聞きしました。私も試してみたところ、簡単でした」と、十文字に掻き切った腹を見せたのです。宗治は涙を流し、治嘉の介錯をしてやりました。
そして、切腹の当日。宗治の兄・月清入道と弟の難波伝兵衛と、ともに舟に乗ろうとしたところ、月清入道の馬の口取りをしていた与十郎と、宗治の草履取りをしていた七郎次郎が同乗を願い出てきました。二人は残るように諭されるものの、「一足お先に、三途の川でお待ちしております」と言い残すと、刺し違えて自害しました。
自らの切腹に先立ち、家臣との別れを経験した宗治らは、6月4日午前10時ごろ、高松城の大門から船を漕ぎ出し、秀吉の本陣の近くまで進みました。降りしきる小雨の中、宗治は辞世の句を朗詠します。
「浮世をば 今こそ渡れ 武士の名を 高松の苔に残して」
宗治が船上で心静かに切腹すると、これを国府市正が介錯し、桶に納めました。首桶を検使に渡した市正は船で遺体を城に運び、穴を掘って亡骸を埋葬しましたが、自らも首を掻き切ってその穴に落ちて命を絶ちました。
宗治の首実検を行った秀吉は宗治のふるまいに打たれ、「古今の武士の鏡」と称えたと言われています。
おわりに
毛利方が信長の死を知ったのは宗治が切腹した直後であったと言います。みすみす宗治を死なせることとなった毛利方はさぞ歯噛みしたことでしょう。
毛利方では、その後どうするべきかについて、意見が真っ二つに割れました。「信長が死んだ以上、講和を破棄して秀吉を攻めるべき」という吉川元春と、「誓書を取り交わした墨が乾かないうちに講和を破棄するわけにはいかない」という小早川隆景の意見が対立します。
秀吉も勝利したとはいえ、毛利方がどちらに転ぶか見極めてからでなければ兵を引くこともできず、はらはらして成り行きを見守っていたことでしょう。
すると、6月5日から元春、隆景らの軍が撤退しはじめました。これ以上、秀吉と戦うのは厳しいとの判断だったのでしょう。秀吉はこれを見届けてから、ようやく兵を引きあげました。
秀吉はこれから信長の敵討ちに行かねばなりません。兵は多ければ多いほど良い。そう考え、ほぼ全軍を備中高松城から撤退させた秀吉は、いわゆる「中国大返し」を敢行するのです。
【参考文献】
- 戦国合戦史辞典 小和田泰経 新紀元社 2010年
- 戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争 小和田哲男 吉川弘文館 2006年
- 戦国クロニクル 吉田龍司 宝島社 2006年
- 週刊ビジュアル日本の合戦 No.17 羽柴秀吉と高松城包囲戦 (2005/10/25号)
- [完全保存版]戦国ものしり百科 中江克己 PHP研究所 2005年
- おかやま観光ネット 高松城水攻め
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