死神と言われた軍艦 〜駆逐艦「雪風」のハナシ〜
- 2025/03/28

こんな不名誉な噂話のある軍艦とは、日本海軍の駆逐艦「雪風」。「呉の雪風、佐世保の時雨」といわれるほど奇跡の幸運艦というイメージの強い「雪風」が、なぜ “死神” と噂されたという話があるのか。
今回は、この駆逐艦「雪風」について紹介します。
駆逐艦「雪風」について
日本海軍は昭和14年(1939)に主力駆逐艦となる陽炎型駆逐艦を完成させます。駆逐艦とは、艦隊編成の中では小型な艦艇になります。主力艦や輸送艦を護衛するために高速で、水上艦に対しては砲撃・雷撃を、潜水艦に対しては爆雷攻撃を行う万能な役目を担います。
陽炎型というのは、駆逐艦の中では大型で重装備な仕様です。また、艦首を鋭い形状にしたおかげで水の抵抗が少なくなり、最大35ノットの高速航行が可能となりました。
昭和15年(1940)1月20日、この陽炎型8番艦として、「雪風」は長崎県の佐世保海軍工廠で就役しました。
就役後は呉鎮守府に所属し、第16駆逐隊を編成(僚艦は同じ陽炎型の「黒潮」「初風」)します。なお、太平洋戦争開戦直前の第16駆逐隊は「雪風」「時津風」「天津風」「初風」の4隻で編成されており、軽巡洋艦「神通」を旗艦とする “華の二水戦” と呼ばれた第二水雷戦隊に所属しています。
太平洋戦争における「雪風」の活躍
「雪風」の初陣は昭和16年(1941)の12月12日。南方攻略の支援としてフィリピンへ派遣されますが、作戦行動中に空襲によって損傷を受け、ミンダナオ島のダバオで修理を受けることに…。しかしそこでも敵のB-17爆撃機に襲われてしまいます。この時、重巡洋艦「妙高」は被弾し中破しますが、「雪風」はたまたま機関部を動かしていたために素早く基地から逃げ出すことができ、爆撃を回避することができました。
その後はスラバヤ沖海戦(1942年2月)やミッドウェー海戦(1942年6月)など、太平洋戦争の主な海戦に参加します。

昭和18年(1943)2月に始まったガダルカナル島撤収作戦では、多くの駆逐艦が損傷・沈没する中、「雪風」は無傷でその任務を完了しています。
同年7月のコロンバンガラ島沖海戦においては、直前に装備された逆探(電波探知機)が威力を発揮して活躍。「雪風」「浜風」「清波」「夕暮」の駆逐艦隊は、夜間のスコールに紛れて敵艦隊に接近し、巡洋艦2隻大破・駆逐艦1隻撃沈・2隻大破という大戦果を上げるのです。
また、昭和19年(1944)6月のマリアナ沖海戦では、空襲を受けた際に探照灯で敵機パイロットの目を眩ませるという奇策で敵機3機を撃墜し、難を逃れました。
このように南方で活躍していた「雪風」ですが、この年の10月に起きたレイテ沖海戦で、日本海軍の機動部隊が事実上壊滅すると、多くの日本軍艦艇と一緒に本土へ撤退を余儀なくされます。
帰港後すぐに「雪風」を待っていたのは “大和型戦艦3番艦にして超大型空母へ改装された「信濃」の横須賀から呉への護衛” という任務でした。しかし、「信濃」は静岡県浜松市の沖合を航行中に敵潜水艦の魚雷4発であえなく沈没してしまいます。
そして、昭和20年(1945)4月6日。天一号作戦の一環として、沖縄へ水上特攻を試みるメンバーに「雪風」は選ばれます。しかし戦艦「大和」を旗艦とした水上特攻艦隊10隻は、東シナ海の坊ノ岬沖で敵機の攻撃にあい、「大和」は沈没。作戦は中止となりました。結果、帰投できたのは中大破を含め4隻のみ。なお、「雪風」は戦闘中に敵ロケット弾が命中しますが、奇跡的にも不発で損傷することなく帰投。そして8月15日に終戦を迎えます。
終戦後の「雪風」
ほぼ無傷の状態で終戦を迎えた「雪風」は、特別輸送船に指定され、外地からの復員船として活躍しました。この時、あちこちの復員船では戦後の混乱に伴う結果として、船内では下剋上のような状態が見られ、様々なトラブルが起きたといいます。しかし、「雪風」の乗組員たちは
「帝国海軍の跡始末はおれたちの手で立派にやりとげよう。それが生き残ったおれたちの義務であり責任だ」
として、規律は厳正に保たれたようです。
合計15回、1万3千人以上もの日本人を本土に送り届けた「雪風」は、見事に復員船としての任務を完遂し、戦時賠償艦(戦利艦)として連合国に引き渡されることとなりました。
生まれ変わる「雪風」
戦利艦に選ばれた時も「雪風」の乗組員たちは「 ”どうせ外国に引き渡すのだから” といった投げやりな気持ちはみじんもなく、みんな雪風乗員の誇りを失わず、最後まで、帝国海軍の名誉を汚さぬようにという深い祈りをこめた真剣な気持で、各自が整備にあたった」
とのことです。その結果、連合国海軍武官の視察点検を受けた「雪風」は「敗戦国の軍艦でかくも見事に整備された艦を見たことがない。まことに驚異である。」という評価を受けました。
昭和18年(1947)7月、佐世保から引渡先の中華民国へ旅立った「雪風」は、そこで「接一号」という仮の艦名が与えられます。そして、昭和19年(1948)5月1日付で「丹陽(タンヤンDD-1)」と名付けられ、正式に中華民国海軍の艦艇として生まれ変わるのでした。
その後、「雪風(丹陽)」は国民党 vs 共産党の中国内戦で活躍します。そして、昭和40年(1965)12月16日に老朽化のため、退役して練習艦となりますが、昭和44年(1969年)に台風で艦底破損したため、解体処分されてしまいました。
なお、昭和46年(1971)に「雪風」の錨と舵輪は日本に返還され、現在は広島県江田島市にある海上自衛隊第1術科学校に保存されています。
“死神” と噂された訳
以上のように、激戦を幾度も無く乗り越えた「雪風」ですが、何故 “死神” と噂されたのでしょうか? それは「雪風」の近くにいた艦艇がことごとく不幸に見舞われたからです。いくつかの例を挙げてみましょう。
- 修理のためダバオ寄港中に遭った空襲で「妙高」は中破するも「雪風」は無傷
- “コロンバンガラ島沖海戦”では「雪風」のすぐ後方にいた「夕暮」に魚雷が命中して轟沈
- 「雪風」は機関故障で参加できなくなった空母「龍鳳」の護衛で「時雨」が沈没
- 「雪風」が護衛についた空母「信濃」、一度も戦闘に参加せず沈没
- 舞鶴港で空襲に遭遇した時に「雪風」が触れた敵機雷は不発、同じ機雷に触れた「初霜」はそれが爆発して沈没
これらを見ると、「雪風」と行動を共にした艦はことごとく沈没しており、「雪風」が周りの艦の命を吸い取って生き延びているように思えますね。ですから、“死神”と噂されたのでしょう。
「雪風」は本当に “死神” なのか?
そもそも、日本にとって序盤以外は劣勢だった太平洋戦争において、「雪風」に関係した・しないに関わらず、敵の攻撃によって非常に多くの日本軍艦艇が沈んでいきました。一方で、「雪風」が最後まで生き延びてこれた本当の理由は
「乗組員全員が歴戦の勇士であり、士気は旺盛、練度は最高」
「この艦は、どんな戦闘でも決して沈むことはないーこのような信念が乗組員のみんなの気持ちとなっていた」
からではないでしょうか。
もちろん機雷やロケット弾の不発という、運にも助けられたこともありますが、まさに日頃の訓練による戦闘練度の高さが「雪風」を最後まで生き延びさせたのであり、決して周りの艦の命を吸い取った訳ではないでしょう。
「雪風」は決して “死神” ではなく、日本海軍一の “武功艦” なのです!
まとめ
最後まで日本海軍の誇りを忘れなかった「雪風」と乗組員たちを象徴するエピソードをこのコラムのまとめとして紹介します。戦後、復員船として従事していた時、引揚者を慰め元気づけるため、「復員者歓迎の歌」というのを乗組員たちが考えたそうです。
一.皆さん永々ご苦労さん 迎えに来ました雪風が
故国の便り満載し 万里波濤の浪蹴って
二.富士と桜が明日は待つ 皆さんご辛抱いましばし
狭い艦内じゃあるけれど 住めば都の風が吹く
三.いばらの道は遠けれど 常に雄々しいのぞみもて
君らの鍛えし心身を 捧げよ祖国の再建に
【主な参考文献】
- 豊田穣『雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦 栄光の生涯』(潮書房光人社、1983年)
- 奥宮正武『大鑑巨砲主義の盛衰』(朝日ソノラマ、1992年)
- 半藤一利『太平洋戦争 日本軍艦戦記』(文藝春秋、2014年)
- 日本軍の謎検証委員会『知られざる日本海軍軍艦秘録』(彩図社、2014年)
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