日本海軍の最終兵器「殺人光線」〜牛尾実験所で開発されていたものとは〜

 皆さんは「殺人光線」をご存知ですか?

 殺人光線、凄い名前ですよね。ウル◯ラマンのスペシウム光線を彷彿とする…。この強烈なインパクトを与える「殺人光線」とは、太平洋戦争(1941~45)の時に日本海軍が研究&開発していた電波(マイクロ波)を利用した画期的な最終兵器です。

 結局、完成には至らずに終戦を迎えたため、軍事機密事項として歴史の表舞台に登場することはなかった “幻の兵器” ともいえます。しかし、平成26年(2014)に静岡県島田市の “ある遺跡” で現地説明会が年間を通じて複数回行われたことによって、この兵器の存在が歴史ファンの間で話題になりました。

 その遺跡名は「第二海軍技術廠牛尾実験所跡遺跡」です。この場所は戦争当時、日本における超一流の研究者と技術を結集した日本海軍の最終兵器「殺人光線」の研究&開発をしていた所だったのです。

 今回は、ここで研究&開発をしていた「殺人光線」をご紹介します。

「殺人光線」起案のきっかけ

日本海軍の電波研究

 当時、日本海軍には電探(レーダー)開発や通信装置といった、電波技術を担当していた “海軍技術研究所電気研究部” という部署がありました。ここで、昭和13年(1938)に、従来よりも高出力なマグネトロン(海技研849管)の開発に成功します。

 このマグネトロンは構造の特徴から「橘型マグネトロン」と呼ばれ、やがて艦船探知用レーダー(22号電探)に採用されます。しかし、電波を照射することによって敵に逆探知されてしまうのではないかという疑念が当時の海軍上層部にはあり、レーダーの開発と普及は思うように進みませんでした。

 そこで、防衛的な兵器ではなく、攻撃的な兵器に利用しよう、と考えたわけです。

山本五十六の発言

 昭和17年(1942)6月、日本海軍はミッドウェー海戦で大敗北を喫します。その直後の会議において、連合艦隊司令長官だった山本五十六が

「私は日頃この戦いを遂行するには通常兵器では1年ももたないと主張して来たが君の様なわかい技術者が何として(も)画期的な兵器を開発してくれ。これなくしては…」
水間正一郎『私のあゆみ』より

と発言したことがきっかけになったようです。

 その後、会議では画期的兵器の具体方策として「殺人光線(A研究)」と「原爆(B研究)」の二案が紹介され、それぞれの開発が始まります。

「殺人光線」研究実験がスタート

殺人光線の概要

 「殺人光線」は、昭和17年(1942)の6月末に、

「“大出力マグネトロン”を利用し、“生物学的効果”“生理学的効果”“科学作用”によって何らかの攻撃を与える兵器」

として計画されます。ちなみに、装置名は “最終” を意味する “Z” をつけて「Z装置」と名付けられました。

 しかし、恐ろしいほど大雑把な計画ですよね。やはりイメージとしてはウ◯トラマンのスペシウム光線か…。

 その後、研究の成果や戦況の変化により、

「B29などの航空機のエンジンに何らかのダメージを与え、撃墜させる兵器」

に変更されます。

 多少は具体的になりましたが、“何らか”とは? まだまだツッコミどころ満載ではありますが、秘密兵器の研究&開発は極秘に進められるのでした。

開発場所の選定と研究メンバー

 「殺人光線Z装置」の正式な開発命令『Z装置研究実験の件訓令(鑑本機密第3号10ノ41)』が同年9月23日付で発令され、具体的に動き出します。

 まずは研究&開発場所の選定ですが、

  • 東京から離れた場所
  • 東京から日帰り可能(汽車で5時間くらい)
  • 電波の放射実験が可能な人里離れた場所
  • 大電力が確保できる

という選定基準を全てクリアしたのが、静岡県島田市だったようです。

 なお、”東京から離れた場所” という理由は「いづれ起こりうる米軍の爆撃への疎開対策」と「東京にいる上司の邪魔が入らないように」だったそうです。研究者にとって、上司の邪魔は米軍の爆撃並みの脅威だったのでしょう。

 この場所で、海軍技術研究所の研究者及び助手約370名、理化学研究所や阪大、東大の研究者や日本無線(株)の技術者などが研究&開発に携わります。

 ちなみに、日本無線(株)は島田市の研究所(島田分室)用地を準備する際も力を貸してくれたようです。

 また、研究を進めていく物理懇談会には仁科芳雄や菊池正士、後にノーベル物理学賞を受賞する朝永振一郎といった錚々たるメンバーが名を連ね、同じノーベル物理学賞を受賞する湯川秀樹も島田分室を訪れたそうです。

朝永振一郎(左)と湯川秀樹(右)(出典:wikipedia)
朝永振一郎(左)と湯川秀樹(右)(出典:wikipedia)

「殺人光線」研究実験の経過

 昭和18年(1943)、「原子爆弾はこの戦争には間に合わない」という理由で「原爆開発(B研究)」は中止となります。

 これ以降、日本中の物理学者の全能力は「殺人光線」開発に注がれ、島田分室での研究はさらに勢いが増します。実際、より強力なマグネトロンの開発やマイクロ波照射装置の開発、マイクロ波による動物や電気機械への影響など様々な研究が行われたようです。

 しかし、さらに戦況は悪化したため、“少しでも実現可能な兵器開発”を優先するようになります。そこで、島田分室では“ある装置”の開発に専念します。それが、「A装置」と呼ばれる「極超短波近距離起爆装置」です。

 後に当実験所の所長になる渡辺寧(当時、電波兵器の業務部門を担当)が「軍令部の要望を満たす兵器は膨大な電力が必要なため不可能と判断」し、 代案として「高角砲弾爆破」を提案したといわれています。

 この時期、島田研究所を訪れた高松宮殿下は

「研究ガ今後ノ戦争ニ役立テバ勿論ヨイノデ、(中略)例ヘ間ニ合ハズトモ副産物的ノ成果ハ幾多己ニ利用サルベキモノアリ、又将来日本ガ今コレダケヤッテオケバ平戦ヲ問ハズ大キナ力ニナルト信ズル」
中央公論社『高松宮日記 第8巻』より

という言葉を述べています。

 なお、「A装置」の正式な開発命令は昭和19年(1944)8月31日付けで発令されます。

 昭和20年(1945)2月、海軍の体制が大きく変わります。それに伴い島田分室は「第二海軍技術廠島田研究所」へ改称されます。そして「A装置」専用施設である「第二海軍技術廠牛尾実験所」が新設されたのです。

「A装置」と牛尾実験所

 さて、この「A装置(極超短波近距離起爆装置)」とは一体どのような兵器でしょうか?

 これは、高角砲弾に受信機と起爆回路を組み込み、パラボラ反射鏡から発射されたレーダー電波内に高角砲弾が入ると起爆して敵航空機を撃墜する兵器です。

 その「A装置」専用実験所である牛尾実験所には、直径10mのパラボラ反射鏡が設置され、上流にある大井川水力発電所から6,600V(または22,000V)の電気を送り込み、実用化に向け実験が行われたそうです。

 しかし、時すでに遅し。「A装置」の完成を待たずに日本は終戦を迎えることとなり、その後まもなく、島田研究所と牛尾実験所は連合国によって調査が行われます。

 この時、海軍と島田研究所は研究者たちの将来を案じて、大学の研究者は研究に関わっていなかったことや、動物へのマイクロ波照射実験といった「殺人光線」計画があったことは秘匿し資料や装置類は徹底的に廃棄しました。

 つまり、ここではマグネトロンの高出力化と「A装置開発」のみが行われていたことにしたのです。結果、連合国の調査では「殺人光線」開発は陸軍のみ、と報告されています。

「殺人光線」が戦後に残したもの

 島田研究所での成果は、戦時中に実用的兵器としては完成せず“幻の最終兵器”として終わりました。

 しかし、この実験に関わった研究者や技術者たちは後世に大きな影響を与えています。ノーベル賞受賞者を輩出しただけでなく、戦後日本のエレクトロニクスの基盤技術に繋がっていくのです。

 代表的な例が電子レンジでしょうか。

 電子レンジはアメリカのレイセオン社が1945年に発明したとされていますが、日本でも1946年に島田実験場の残存施設を利用して創業した島田理化工業所(1947年8月から島田理化工業株式会社となり、今でも電子・通信機器を制作)が“高周波を利用した加熱接着装置を開発しました。

 また、同会社は電話(長距離電話回線)やテレビ(全国放送用の番組伝送)に欠かせないマイクロ波通信に利用される“分波器”の開発も行います。

 まさに高松宮殿下の述べた言葉通りになったわけです。

「第二海軍技術廠牛尾実験所跡遺跡」の現状

 これだけ後世に影響を残した当研究所ですが、大井川の河川工事のため取り壊されることとなり発掘調査が行われました。

 一方で、これまで紹介した通り、日本の科学技術発展に大きく関わった非常に重要な遺跡なため、保存に向けた署名活動も行われました。

 しかし、平成26年(2014)12月9日、河川に対する災害対策を優先する形で陳情は却下されました。そして翌年1月15日より解体工事が開始され、実験所のあった場所は切り崩され、今はその跡地となる大井川河岸に説明板が立つのみです。

※参考:牛尾実験所跡とZ研究に関する動画(SBSnews6)

最後に

 非常に大雑把な構想の中から生まれた「殺人光線 Z装置」と、実現可能と目された「A装置」。

 これらは本当に当時の状況下で実現可能と思っていたのでしょうか?筆者としては甚だ疑問です。しかし、理想ばかりの要求だった「零式艦上戦闘機(零戦)」の成功例があった海軍としては、今回も同じように成功を信じていた(夢みていた?)のかもしれませんね。

 また、こういった貴重な遺跡が失われていくのは歴史ファンにとって非常に残念です。ただし、災害対策を優先した行政の判断は未来を考えると正しかったと思います。

 “過去の遺産”と“未来の安全”。この共存について、我々はどうすべきか? たまには、こういったことを考えてみるのも良いですね。


【主な参考文献】
  • 『第二海軍技術廠牛尾実験所跡遺跡 -大井川牛尾地区河道拡幅工事に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書-』(島田市教育委員会、2019年)
  • 太平洋戦争研究会『面白いほどよくわかる太平洋戦争』(日本文芸社、2000年)

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  この記事を書いた人
まつおか はに さん
はにわといっしょにどこまでも。 週末ゆるゆるロードバイク乗り。静岡県西部を中心に出没。 これまでに神社と城はそれぞれ300箇所、古墳は500箇所以上を巡っています。 漫画、アニメ、ドラマの聖地巡礼も好きです。

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