命をかけた大仕事、江戸無血開城…知られざる真の交渉人「山岡鉄舟」

山岡鉄舟の肖像(出典:近代日本人の肖像)
山岡鉄舟の肖像(出典:近代日本人の肖像)
 明治元年(1868)、徳川幕府の260年におよぶ支配は終わり、日本は新体制へと移行しました。明治維新です。その象徴とも言えるのが江戸無血開城。新政府軍の西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟の二人の会談が大きな役割を果たしました。特に勝は沈みゆく船である旧幕府のすべてを背負って会談に臨んだと言われています。

 しかし、西郷が「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は仕末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬなり」と評したのは勝ではなく、山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)でした。

 彼はどんな人物で、江戸無血開城で果たした役割はどのようなものだったのでしょうか。

山岡鉄舟とは

 山岡鉄舟は、勝海舟の命を受けて江戸へ進軍中の新政府軍・西郷隆盛と会見し、西郷と勝の江戸会談の準備をした人物——というのがこれまでよく言われていた人物像です。まずは、山岡鉄舟が歴史の表舞台に立つ、西郷との会見に至るまでの足跡を辿ってみましょう。

 天保7年(1836)、江戸で生まれた小野鉄太郎(山岡鉄舟)は、幕府の役人だった父親が飛騨郡代を拝命したことに伴い、9歳から飛騨高山へ移り住みました。後に剣豪として名を馳せる鉄舟はここで北辰一刀流を学びます。師匠は父親が江戸から招聘した剣の達人・井上清虎でした。

高山陣屋(岐阜県高山市)前にある若き日の山岡鉄舟像
高山陣屋(岐阜県高山市)前にある若き日の山岡鉄舟像

 数年後、父母を相次いで亡くした鉄舟は、乳飲み子を含む5人のきょうだいを連れ、江戸に戻ります。異母兄を頼ってのことですが、兄とはいえ、血のつながりがあるだけの他人だったようで、お世辞にもいい扱いは受けず、大変な苦労をしたようです。

 そんな苦境を見かねた井上清虎のはからいもあり、鉄舟は安政2年(1855)に講武所に入所。千葉周作に剣を学び、山岡静山に槍術を学びます。山岡静山が急死した後、山岡家の婿養子として山岡家を継ぎました。ここで姓が「小野」から「山岡」に変わります。後に鉄舟を西郷の元へ走らせることになる徳川慶喜の側近・高橋泥舟(たかはし でいしゅう)は山岡静山の弟です。彼はこのときすでに高橋家の養子に入っていました。

 北辰一刀流の玄武館・千葉道場といえば、幕末の志士を多数輩出したことで有名ですが、ペリー来航(1853)で時代が大きく動く中、鉄舟は安政の大獄(1858~59)をきっかけに尊王攘夷思想をもつようになります。玄武館同門の清河八郎が主催する清河塾に参加した後に、清河八郎が結成した尊王攘夷党「虎尾(こび)の会」に発起人として名を連ねました。尊王攘夷党とは要するに過激派です。

 「虎尾の会」は横浜の外国人居留地焼き討ちを計画したり(露見して失敗)、幕府の役人を切り捨てたり、ヒュースケン暗殺事件(1861)に関与する会員がいたり、思想だけでなく行動も過激でした。そんなことから、すでに優れた剣の使い手として名の知られていた鉄舟は、講武所の幕臣でありながらかなりの危険人物と目されていたようです。

 文久3年(1863)、清河八郎とともに浪士隊に参加、上京する14代将軍・徳川家茂の警備に当たりますが、清河の本当の目的が尊皇攘夷の実行であったため、浪士隊は江戸に戻されることになり、鉄舟も江戸に帰りました。ちなみに、浪士隊すべてが江戸に戻ったわけではなく、一部は京に残りますが、これがのちの新撰組です。

山岡鉄舟、歴史の表舞台へ

 鉄舟が歴史の表舞台に登場するのは、戊辰戦争が勃発した慶応4年(1868)のことです。

※参考:戊辰戦争の流れ。赤は新政府軍、青は旧幕府軍の大まかな動き
※参考:戊辰戦争の流れ。赤は新政府軍、青は旧幕府軍の大まかな動き

 この年の1月に起こった鳥羽・伏見の戦いに敗れた旧幕府軍の徳川慶喜は、上野寛永寺で謹慎生活に入ります。朝敵となってしまった徳川家断絶の危機を回避するため、慶喜の助命嘆願運動が行われていましたが、成果は芳しくありませんでした。

 徳川家に降嫁した14代将軍家茂の妻・和宮や、薩摩藩出身の13代将軍家定の妻・篤姫が新政府に嘆願書を送るものの、本気では取り合ってもらえなかったのです。新政府側としては旧幕府側の真意をはかりかねていたようです。

 そこで、徳川慶喜が自ら西郷隆盛に接触するために使者としたのが、このとき慶喜を側で守っていた鉄舟の義兄・高橋泥舟です。しかし、泥舟は徳川慶喜の身辺警護で江戸を離れられないため、義弟の鉄舟に白羽の矢が立ちました。

 これまで鉄舟は勝海舟の指示で動いていたとの説が主流でした。しかし現在は、勝海舟と山岡鉄舟の初対面は、鉄舟が西郷との会見のために江戸を離れる直前であり、鉄舟は徳川慶喜の代理人であるとされています。

 明治維新前の鉄舟は尊皇攘夷派で勝海舟は開国派。接点はまったくありませんでした。勝海舟は「山岡鉄舟に殺されるかもしれない」という忠告まで受けていたそうです。

 そもそもなぜ鉄舟は勝海舟に会ったのか。鉄舟の経歴は、幕臣であるにも関わらず尊皇攘夷の志士で凄腕の過激派、つまりかなりの危険人物でした。なので西郷との会見前に幕府要人との意思疎通をはかろうとしたものの誰も会ってくれなかったところを唯一、幕府の軍事総裁だった勝海舟だけが会ってくれたということのようです。

西郷との会見

 西郷は駿府にいるものの、新政府軍は3月15日の江戸城総攻撃に向けて行軍しており、山岡が江戸を出発したときに新政府軍の先頭は川崎あたりまで到達していました。つまり、川崎から駿府まで鉄舟は新政府軍、つまり敵中を進まなければならなかったわけです。

 鉄砲で撃たれることもあったそうですが、勝海舟が薩摩弁の護衛をつけたため、その薩摩弁にもずいぶん助けられる場面もあったようです。その護衛とは、江戸で捕縛されていた薩摩藩士の益満休之介。かつて山岡鉄舟が所属していた尊皇攘夷党「虎尾(こび)の会」に名を連ねていました。

 こうして駿府へたどり着いた鉄舟は西郷との会談に臨みました。

西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地の碑(静岡県静岡市)
西郷隆盛・山岡鉄舟会見の地の碑(静岡県静岡市)

 駿府での会談の結果を踏まえ、勝が西郷と江戸城で会見し、いわゆる江戸城総攻撃中止の決定——江戸城無血開城が決まった、というのがこれまでの通説でしたが、実はここでは何も決まっていませんでした。

 江戸城総攻撃の中止も、徳川家の処遇も、決定したのはすべて朝廷であり、そして現在は、その元となる話し合いは西郷と鉄舟によって行われたものであったと考えられています。

おわりに

 当時、江戸の人口は100万人であり、江戸城内だけでも15万人の人々が生活していました。これらの人々を戦火に巻き込むことなく平和裡に江戸城の明け渡しが行われたのですが、これは世界的に見ても非常に稀有な例で、大変意義のあることでした。

 のちに山岡鉄舟は明治天皇の侍従となりますが、これには西郷の是非にという推薦があったと言われています。

晩年の山岡鉄舟(出典:近代日本人の肖像)
晩年の山岡鉄舟(出典:近代日本人の肖像)


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
荻野ミカ さん
江戸下町仏教大好きライター。時代劇好きが高じ早稲田大学で日本近世史(江戸時代)を専攻。神田・日本橋を散歩しては歴史の中の神社仏閣・名所旧跡・老舗を見つけて喜ぶ日々を送っています。本職は新聞社の記事広告作成。

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