【敗者の明治維新】水戸学という呪い…最後の将軍・徳川慶喜が幕府ではなく、国を選択したワケ
- 2025/02/27

この大将の敵前逃亡ともいえる出来事は、幕府軍の士気を大いにくじき、その後の戊辰戦争にも大きな影響を与えました。慶喜がこのような行動に出たのは、一説には「朝敵」となることを恐れたからだと言います。
何故、慶喜は「朝敵」になることをそれほどに忌避したのでしょうか?それは彼の出身地である水戸藩から生まれた「水戸学」に理由がありました。
「水戸学」と尊皇攘夷思想
「水戸学」の源流は、かの有名な第2代水戸藩主の徳川光圀にまで遡ります。彼が明暦3年(1657)、歴史書『大日本史』の編纂をするために多くの学者を集めたことで、南朝正統論を基本とする学問が誕生しました。これが水戸学です。元文2年(1737)に一時中断された『大日本史』の編纂が、江戸中期、第6代藩主・徳川治保(はるもり)の時代になって再開されると、水戸学も再び盛りあがりをみせます。
徳川慶喜の父であり、第9代藩主の徳川斉昭(なりあき)が天保8年(1837)に藩校「弘道館」を設立し、水戸学はさらに発展。皇室を神聖なものとして敬うという尊皇思想に、「夷狄(いてき)打ち払うべし」という攘夷思想を加えた「尊皇攘夷」という単語が誕生します。
折しもロシア船の蝦夷来訪をはじめ、外国船が日本のあちこちに姿を表して不安が広がっていた時期でもあり、尊皇攘夷思想はたちまちのうちに日本を席巻しました。親幕・反幕に関わらず、ほとんどの武士や知識人が感化されたといいます。
明治の時代になっても影響は色濃く残り、教育勅語などにも水戸学の用語が使われています。「水戸学」がこれほどに日本に影響を与えているのに、「水戸藩」は薩摩や長州、あるいは会津のような活躍を見せていないというのが幕末史の複雑であり興味深いところですが、本題とは外れるので置いておきましょう。
さて、幕末に一大ムーブメントを起こした水戸学と尊皇攘夷思想ですが、本来はその中に幕府を軽んじるような考えはありませんでした。天皇を尊重しながらも、天皇から政治を預けられた幕府のもと、一致団結して外敵から国を守ろうというのがそもそもの教えです。けれど、幕府の諸外国への対応を弱腰とみた攘夷志士たち、特に西側の志士たちは次第に倒幕思想へと傾いていきます。
こうして、同じ尊皇攘夷を唱えながら、勤王派と佐幕派という対立する派閥が生まれていったのです。
将来を嘱望された将軍候補
天保8年(1837)9月29日、水戸学を発展させた名君・徳川斉昭の七男として、徳川慶喜は誕生しました。生後7ヵ月から9年間、水戸で育った慶喜は弘道館で学問と武術を学びました。水戸で学問と言えば、そうです、水戸学です。斉昭は幼い頃から英邁な慶喜に期待をかけ、熱心に水戸学を学ばせたと言います。慶喜に期待をかけた人は斉昭だけではありません。第12代将軍・徳川家慶は病弱な我が子ではなく、慶喜を後継に考えていたともいわれています。
家慶の希望は結局叶わず、慶喜はその後、14代将軍候補として名前が挙がったものの、最終的に後継者争いに敗れ、将軍継嗣は徳川慶福(家茂)に決まります。もっとも、慶喜本人は「将軍になどならない方がよい」と思っていたようです。
慶喜は江戸幕府大老・井伊直弼と対立し、一時は隠居謹慎処分を受けましたが、直弼の暗殺によって再び表舞台に復帰。将軍後見職や禁裏御守衛総督などを経て、慶応2年(1866)12月に、15代にして最後の将軍に就任します。7月に将軍推挙を受けたにも関わらず、5ヵ月固辞し続けたうえでの着任でした。

当時の日本は第二次長州征伐が幕府の敗北に近い形での停戦となり、勤王派が勢いづいていた時期です。落日の徳川政権を任された慶喜ですが、政治家としての手腕は見事なものでした。反りが合わなかった小栗忠順を登用し、製鉄所や造船所を設立。幕府の軍制改革も行いました。
特に白眉だったのが薩摩・越前・土佐・宇和島の四侯会議を解散に追い込んだことと、大政奉還でしょうか。幼い頃から期待されていただけあって、慶喜の能力は非常に高かったようです。ただし、手法がかなり強引だったため、恨みを買って倒幕の気運を高めてしまった面もあったとか。
また、周囲に任せるべきところを自分で動こうとする欠点や、状況が変わると命令をころりと変えるような悪癖もありました。もちろん臨機応変に対応できるというのは長所でもあります。けれど、それが悪い方向に出たのが戊辰戦争の初戦・鳥羽伏見の戦い(1868)でした。
尊皇だったはずが……「朝敵」の衝撃
慶応3年(1867)10月15日の大政奉還によって、慶喜は倒幕派の大義名分を奪い、徳川中心の諸侯会議体制への再編を目論みます。将来的には天皇を中心とする中央集権国家の樹立を目指し、議会政治の導入も視野に入れていたようです。けれど、徳川宗家が実権を握ったままであることをよしとしない薩摩・土佐・安芸・尾張・越前が政変を起こし、「王政復古の大号令」が発動。慶喜は政治の場から閉め出されました。
慶喜は大阪に退去しつつ、自身の正当性を主張。5藩の中でも慶喜を取り込む形での政治を否定しない土佐・越前に働きかけ、その年の12月頃には新政府への参画がほぼ認められようとしていました。けれど、倒幕強硬派の薩摩藩はなんとしてでも開戦に持ち込むために、関東で放火・強盗・銃撃などを繰り返し、幕府側を挑発し続けました。
幕府や親藩内では反薩摩への感情が膨れあがり、抑えきれなくなった慶喜は、ついに薩摩藩討伐を受け入れます。慶応4年(1868)1月2日に会津藩・桑名藩などを加えた討伐軍を京都へ進軍させ、翌3日に開戦。鳥羽伏見の戦いが始まります。
昔は旧幕府軍の装備が旧式だったと言われていましたが、現在では倒幕軍と変わらない新式武器が配備されていたことがわかっています。けれど、指揮系統の混乱などで旧幕府軍は苦戦。そして1月4日に薩摩側に錦の御旗が授けられたことで、倒幕軍が「官軍」、旧幕府軍は「朝敵」となってしまいました。

前述したように、幕末の武士は勤王・佐幕関係なくほぼ「水戸学」の影響を受け、尊皇の志を抱いていました。そのため、敵軍に錦の御旗が翻っているのを見たときの旧幕府軍の動揺は非常に激しいものになりました。そしてそれは、旧幕府軍の大将である徳川慶喜も同じだったのです。
「朝敵」となった慶喜は、すぐさま退却を決意。戦う素振りで主戦派を宥めつつ、6日に側近や会津藩主・桑名藩主とともに大阪城をひそかに脱出。軍艦開陽丸で江戸に戻ってしまいます。なんと開陽丸艦長の榎本武揚を大阪に置き去りにするという早業でした。
晩年本人が語ったところによると、最初から慶喜は倒幕派と正面衝突をする気はなかったそうです。薩摩討伐にしても、あくまで薩摩と徳川の私戦という形で収めたかったのだとか。けれど錦旗が持ち出されたことで慶喜の計算は崩れ、彼は「朝敵」となってしまったのです。
とはいえ、北条義時・足利尊氏・武田勝頼などなど、「朝敵」の汚名を着せられた武将は過去にもいます。幕末の長州藩もまた「朝敵」となった藩です。彼らは己の主張や面子、領地や領民を守るために、「朝敵」となった後も戦い続けました。
鳥羽伏見の戦いにおいて大将自ら戦を放り投げるような真似をしたのは、やはり慶喜が水戸学の教えに縛られていたことが大きかったのではないかと思います。
慶喜の回想録『昔夢会筆記』によると、水戸徳川家には「幕府と朝廷が対立したら、幕府と戦っても朝廷とは戦うな」との家訓もあったとか。江戸幕府将軍でありながら、慶喜に幕府を守ろうとする意識が薄いのは、そのあたりも影響しているのかも知れません。
武士の面子を捨ててまで、慶喜が選んだもの
慶喜の行動は軍の大将としては最悪であり、彼に従った武士たちにすれば裏切り行為以外の何ものでもなかったことでしょう。けれど、日本国にとってはどうだったでしょうか?もし慶喜が徹底抗戦を選んでいたら、日本国内は内乱状態に陥り、長い間混乱が続いたかもしれません。実際、慶喜が江戸に退却した後でも、幕府側にはまだ戦力が残されていましたし、勝ち目は充分にあったのです。ただし、「朝敵」となったことで幕府軍の求心力も士気も落ちていますし、短期決戦で「官軍」を押さえ込めるほどの力は失っていたと思います。内乱が長期化すれば、諸外国が介入してくるのは目に見えています。最悪、どこかの国の属国化の可能性もあったでしょう。しかし慶喜が主戦派を退けて恭順を選択したことで、わずか2年で戊辰戦争は終結しました。諸外国による干渉はありつつも、主権は日本国にある形で「明治」という新しい世を始めることが出来たのです。
慶喜は、諸外国が日本の国権に食い込んでくるのを恐れていたといいます。だからこそ鳥羽伏見以前から戦いを避けようとしていたのです。
おわりに
繰り返しますが、慶喜のしたことは武士としては非難されて仕方のないことだと思います。しかし日本全体で考えると国力の消耗を少なくするベターな選択だったのではないでしょうか。頭のいい慶喜のことです。敵前逃亡のような真似をすれば、自分の評価が地に落ちることはわかっていたことでしょう。それでも恭順を貫いた慶喜は、武士の面子より日本という国の将来をとったとも言えるかもしれません。
【主な参考文献】
- 片山杜秀『尊皇攘夷 水戸学の四百年』(新潮社、2021年)
- 家近良樹『徳川慶喜 人物叢書 新装版』(吉川弘文館、2014年)
- 渋沢栄一『徳川慶喜公伝』(平凡社 、1967年)
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