「光る君へ」藤原道長の娘・彰子の出産を邪魔する物怪の「正体」

 大河ドラマ「光る君へ」第36回は「待ち望まれた日」。一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の娘)の出産が描かれていました。

 寛弘5年(1008)9月、彰子はいよいよ出産の時を迎えます。同月9日の夜、彰子は産気付きますが、翌日もまだ出産はありませんでした。中宮・彰子に取り憑いているという物怪が猛威を振るっていたようです。物怪の力は強く、読経で物怪を払い退けようという僧侶を引き倒すほどでした。9月10日、藤原道長の邸(土御門第)に甥の藤原伊周がやって来ましたが、道長は面会しませんでした。理由については判然としませんが、道長としては伊周に思うところがあったのかもしれません。

 後に伊周周辺の者(例えば高階光子)の彰子呪詛疑惑が持ち上がり、伊周も一時、朝参を停止させられることになりますが、出産前も道長としては伊周が彰子のことを呪詛しているのではとの感情を抱いていた可能性もあるでしょう。伊周は妹の定子(一条天皇の皇后。1001年崩御)が産んだ敦康親王の即位を望んでいたでしょうから、彰子に皇子が産まれては困る訳です。道長もその事はよく分かっていたでしょう。

 更には、道長は、娘・彰子が一条天皇の皇子を産むとなると、亡き関白・藤原道隆(道長の兄。伊周の父)や定子の物怪が現れるのではと危惧したと思われます。ちなみに、彰子の出産の際に出現した物怪は『紫式部日記』には「御物怪」と記載されています。物怪に対して「御」と、敬意を表す語が付いているのです。この事から、物怪は、身分の高い者と認識されていたことが分かります。同書には「御物怪が悔しがって喚き立てる声が何と恐ろしい」と記されています。

 しかし、祈祷の甲斐あってか、9月11日、難産の末に彰子は男子を無事に出産。この男子こそ、後の後一条天皇です。彰子が男子を産んだことにより、伊周の没落は決定的になったとされます。藤原行成は皇子誕生を「仏法の霊験」と『権記』に記しましたが、道長もまた「仏神の冥助(助け)」があったと理解していました。皇子誕生の喜びが伝わってきます。


【主要参考文献一覧】
  • 清水好子『紫式部』(岩波書店、1973年)
  • 今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985年)
  • 朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007年)
  • 倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023年)

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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