大河ドラマ「光る君へ」三条天皇が道長の娘・妍子の立后を提案した理由とは
- 2024/11/05
大河ドラマ「光る君へ」第42回は「川辺の誓い」。
一条天皇から譲位され、即位した三条天皇は、藤原道長を関白にしたいと考えていましたが、政治的実権を失うことを恐れた道長はそれを「今年は重く慎むべき」と固辞します。道長は、内覧そして左大臣として政治を運営することを希望したのです。
三条天皇には、藤原娍子(父は藤原済時)との間に四人の親王と、二人の内親王がいました。2人の間に生まれた第1皇子が敦明親王でした(994年生)。三条天皇は、この敦明親王の立太子を希望していましたが、敦成親王(一条天皇と道長の娘・彰子との子)の即位を望む道長の圧力により、それは叶いませんでした。
三条天皇の后はもう1人おり、それが藤原妍子です。妍子は道長とその妻・倫子との間に生まれました。三条天皇が即位したことにより、娍子と妍子に女御の宣旨が下ります(1011年8月)。当時、娍子は40歳、妍子は18歳。2人は同じ女御になったといえども、大きな差がありました。娍子の父・藤原済時は既に亡くなっており、彼女に有力な後見人がいません。
一方、妍子の父は、政界の頂点に立つ藤原道長です。ちなみに、妍子は三条天皇との間にまだ子は儲けていませんでした。長和元年(1012年)1月、妍子(道長の次女)を立后せよとの宣旨(天皇の命令を伝える文書)が道長にもたらされます。
三条天皇は、妍子との間にも何とか皇子を儲けて、その子を道長に後見してもらいたいと構想していたのでしょう。同年、妍子は中宮となります。それにより、娍子は皇后となりました。これはどこかで見た光景です。そう、かつて道長は自らの娘・彰子を立后させ、定子(藤原道隆の娘)を皇后、彰子を中宮としました。これは史上初の「一帝二后」だった訳ですが、それと同じことがまた現出したのです。
【主要参考文献】
- 朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007年)
- 倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023年)
- ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
- ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄