よほどのことがない限り… 戦国時代、大名に差し出された人質らの運命とは
- 2024/09/27
自分から証人を差し出す
戦国武将たちの中には、自発的な意思で、強い大名に証人(人質)を差し出す例も少なくない。大名同士なら同盟の締結を目的に、中小勢力(国衆)なら自身の非力さを訴えて、大名に庇護を求めるわけである。
珍しい例では、若き日の謙信が「家臣たちが言うことを聞かないので出家します」と大名引退を宣言したとき、家臣の代表が「もう問題を起こしません」と忠誠を誓う起請文と証人を差し出した。そうしないと、敵勢力が攻めてきたとき、彼ら中小勢力を束ねて戦おうとする者がほかにいなかったからである。
また、敵対関係にある武将が大名に攻められて、降伏したときに証人を差し出すこともあった。
例えば常陸国の佐竹義重に服した小田氏治は、義重に孫の金寿丸を差し出している。降将の証人だろうと、自発的な証人だろうと、主従の関係を約束する人質として預かっているのだから、無碍にすることはない。当然そこには出世の道も待ち受けていた。
武田信玄に仕官した真田幸綱(幸隆)が、信玄に三男を証人として差し出した。信玄は幸綱三男を「奥近習」に任じて、その育成に当たった。のちの真田昌幸である。城下町に住み、よく顔を合わせる証人たちは、使い勝手のいい直属の兵力となる。
謙信が「越相同盟」の証人として送られた相模国の北条氏康の末子・北条三郎に、現在の名字と過去の実名を与えて「上杉景虎」と名乗らせ、一門衆として厚遇した話も有名である。
証人は差し出す側だけでなく、本人にとっても決して利益のない話ではなかった。
証人たちの生活費
臣属の証ではないが、この延長として、大名同士が同盟関係を確かなものとするため、証人を送りあうこともあった。例えば、先に記した越相同盟では、謙信もまた重臣・柿崎景家(かきざき かげいえ)の嫡男・晴家(はるいえ)を北条家に送った。北条三郎との交換である。
ちなみに他国に預けた身内の生活費は、実家側が負担するのが普通だったらしい。
少し例は異なるが、天文10年(1541)、甲斐国の武田信玄は実父・武田信虎を追放して、駿河国の今川義元にその面倒を見てもらうことになった。すると、義元は信玄のもとに 太原雪斎を派遣して、「信虎隠居分」の生活費を請求した。信玄は、信虎の「女中衆」も追加で駿河に送り込んでいた(『静岡県史』1562 号文書)。
信虎ひとりだけでなく、その世話をする女性たちの生活費も実家の負担となったのである。当然といえば、当然の話である。通常の証人たちも同様であっただろう。
大名は証人として差し出された年少の武士たちを、将来の幹部候補生として、身近に取り立てる優遇策を用いていた。小姓(こしょう)・近習(きんじゅ)の類である。彼らは大名の警護、事務、生活の世話などに従事した。
その奉仕は、個人の努力のみではなく、大名側近として恥ずかしくない武装や生活の費用負担を家臣たちが提供することによって成り立っていた。
特に謙信の場合、貧しい武装は許されなかったらしく、実家にわざわざ「金色の馬鎧を用意するように」などと豪勢な指示を下している。この時、謙信は彼らにそれに見合う知行を与えることも忘れなかった。
一時的証人を永続的証人にする
大名から証人を求めることもあった。もうすぐ有事が起きるという時に、大名が「敵があなたの領土に迫っている。こういうときは、証人をこちらに寄越すのが昔からの習わしだ」と伝えて、証人を取るのである。
戦争状態が長く続けば、なし崩し的にそのまま証人を手放さないこともあった。一度差し出されたものを返す手はない──というわけだ。
慶長5年(1600)5月、会津征伐に遠征を準備する徳川家康は、加賀国の前田利長から正室と実母を証人に取り立てた(『古蹟文徴』、『村井家譜』、『象賢紀略』等)。
名目上、家康と利長はどちらも五大老で同格にあったはずだが、利長に、自分が敵方につくという悪い噂があって、立場が悪くなっていたので、誤解を解くため、遠征軍の総大将・家康に身内を預けたわけである。
その後、関ヶ原合戦があり、家康の天下になると、利長の正室は加賀国に戻ったが、実母の芳春院(=まつ)はそのまま江戸に留まった。
その理由は不明だが、徳川家康の天下が固まる上で、芳春院が帰国しなかったことは、ひょっとすると本人は、「江戸の方が暖かくて住みやすいから、老後はこのままここで過ごすわ」ぐらいの気持ちでいたのかもしれないが、「あの前田家ですら家康殿に人質を預けている」という空気を作り出す重要な効果があっただろう。
証人も当てにならないことがある
だが、関係を絶対的に約束するつもりで差し出された証人も、案外あっさりとその役割を終えてしまうこともある。上杉家臣の北条高広(きたじょう たかひろ)は、上野国で厩橋城(うまやばしじょう)を預かっている間、謙信居城の春日山に妻と息子を預けていたが、謙信を裏切って敵方に内通してしまった。
速報を受けた謙信は当初、「北条高広が妻子を捨ててまで、敵方に一味するとは思えない。厩橋を孤立させたがっている敵方の作り話だろう」とその離反を信じなかった(『上越市史』545 号文書)。
これが真実と判明しても、謙信は高広を憎むことなく、「道七(=謙信実父)以来之芳志」を忘れてそんなことをするのは「高広に、魔が差した」と驚くばかりだった(『上越市史』543 号文書)。
結局、謙信は証人を一切罰しなかった。その後、帰参した高広本人の罪を不問にして帰参させたあと、以前通り厩橋城の管理を継続させている。
謙信がお人好しだったのもあるかもしれないが、証人というのは、よほどのことがない限り、簡単には処刑されなかったようである。
越相同盟が破綻した時も、柿崎晴家は上杉家に戻ったが、上杉景虎は実家に戻らず、そのまま謙信のもとで暮らし続けた。景虎にはすでに現地で結ばれた妻と、長男がいたからである。
彼ら証人は、離反に伴う肩身の狭さを覚えることはあっただろう。だが、いくら戦国時代とはいえ、実家や主君の判断で送り先と敵対することがあったとしても、即座にその縁を断ち切られるとは限らなかったのである。
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