関ヶ原合戦と小早川秀秋…近年の研究動向を踏まえ、裏切りの真相にアプローチ!

松尾山にある関ヶ原合戦の小早川秀秋陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町。出典:wikipedia)
松尾山にある関ヶ原合戦の小早川秀秋陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町。出典:wikipedia)
 近年の研究において関ヶ原合戦に関する様々な定説について見直しが図られることが多々見られます。関ヶ原合戦で西軍を裏切り、東軍の勝利に貢献した小早川秀秋についても、家康が秀秋に裏切りを促した「問鉄砲」は創作であったことが指摘されています。

 このような近年の研究動向をふまえ、今回は小早川秀秋の裏切りの真相について深掘りしたいと思います。なお、小早川秀秋は生涯において改名を数回していますが、本記事では原則「秀秋」と表記を統一します。

小早川秀秋の生い立ち

 天正10年(1582)生まれとされる小早川秀秋は、幼少期は「金吾」と呼ばれ、成人後は「秀俊」・「秀秋」・「秀詮」と度々改名をしました。父は秀吉の妻高台院の兄木下家定で、遅くとも天正13年(1585)までに秀吉の養子となっています。

 当初、秀秋は秀吉の後継者候補だったようですが、秀吉に実子・鶴松が誕生すると後継者から外れました。その後、鶴松は夭折しますが、秀吉の後継は同じく秀吉の養子であった秀次(秀吉の姉の子)になりました。

 しかし、豊臣一門であったため、秀秋は数え11歳で従三位中納言となり、また文禄の役(1592~93)の際、当初の抗争では秀吉渡海後の留守居とされ、明の征服後には九州を与えられる予定でした。

 文禄3年(1594)7月には小早川隆景の養子になっています。また、慶長の役(1597~98)では名目的でしたが渡海した日本軍の総大将を務めました。

 小早川家の養子入り後も、引き続き秀秋は豊臣一門としても処遇されていました。これについては、文禄4年の秀次事件によって、秀次とその一族が亡くなったため、豊臣一門が減少したこともあるとみられています。

 秀秋の所領ですが、最初は丹波亀山城を与えられ、養父隆景の隠居後には小早川領の筑前(現在の福岡県北西部)を領しました。一時期、越前北ノ庄に転封されましたが、秀吉死後、秀吉の遺命として筑前に復帰しています。

西軍における小早川秀秋の立場と東軍からの勧誘

 次に西軍における秀秋の立場について触れたいと思います。

 慶長5年(1600)6月16日、家康は上杉氏討伐と称して大坂城を出陣しました(会津征伐)。その頃、秀秋は所領である筑前国から畿内に戻っていたようですが、家康の会津征伐軍には参加しませんでした。これは秀秋が出陣を拒否したわけではなく、九州の大名はほとんど出陣していないことから、秀秋の畿内残留は最初から決まっていたものと考えられます。

 石田三成らが挙兵したのは、家康の出陣からおよそ1ヶ月後のことでした。秀秋は三成の挙兵を受け、西軍に参加し、伏見城攻めに参陣しています。

 これ以前に秀秋が伏見城の入城を希望し、それを伏見城の守将・鳥居元忠が拒否したとする逸話がありますが、信頼性の高い史料からは、そのような事実は確認できず、秀秋の伏見入城を希望する逸話は創作と考えられます。むしろ当時の公家の日記には

「今晩伏見城焼ける、今朝攻め落とし、城守討ち果たし、筑前中納言(­=小早川秀秋)手柄の由」
『時慶記』慶長5年8月1日条

とあり、秀秋は伏見城攻めで戦功を挙げました。

 また、並行して秀秋勢は京都守備を担っていた形跡がみられ、西軍の中である程度重要な役割を果たしていました。それは秀秋が豊臣一門であったためと考えられます。

 伏見城の落城後は、伊勢方面に展開したとする説や北陸の東軍方である前田利長勢に備えたとする説があり、このときの秀秋の動向について詳しくはわかっていません。しかし、最終的に秀秋の軍勢は松尾山(現在の岐阜県関ヶ原町)に陣を布き、関ヶ原合戦当日を迎えました。

 秀秋と東軍との接触が確認できるのは、8月28日付けで黒田長政・浅野幸長から秀秋に宛てられた連署状になります。この連署状の内容を一言でいえば家康方への勧誘となっており、長政と幸長は家康方に味方するよう秀秋に働きかけを行っておりました。

 また両名は以前から、度々秀秋を勧誘していたようで、秀秋は東軍に付くか、西軍に留まるかで去就に悩んでいたとみられます。少なくとも8月28日の時点の秀秋は、東軍に味方すると明確な意思表明はしておらず、そのため、長政や幸長は度々秀秋に働きかけを行っていたと考えられます。

関ヶ原合戦と小早川秀秋の動向

従来の説

 さて、関ヶ原合戦の様子について従来の説は、野戦に持ち込みたい家康が、大垣城に布陣していた石田三成等の西軍主力部隊を無視して、近江国の佐和山城(三成居城)を攻めるルートを進み、大垣城の西軍主力部隊を関ヶ原に引きずり出した、と考えられているものです。

 ────合戦当日は朝8時頃から開戦となり、正午になっても勝敗は着かない状況でした。一進一退の攻防が続く中で、寝返りを約束していた秀秋の軍勢もなかなか動かず、しびれを切らした家康は、松尾山の秀秋の陣所に向けて鉄砲を撃たせ(これを「問鉄砲」と呼んでいます)、秀秋の寝返りを促しました。これを受けて秀秋は寝返りを決意し、西軍の大谷吉継隊に攻め入りました。秀秋の裏切り行為によって戦局は一気に東軍有利となり、午後2時頃、東軍勝利で合戦は終わりました。────

 以上が従来の説ですが、この説は江戸時代以降の史料に依拠していることが多く、近年では問題視する傾向にありました。そのため、関ヶ原合戦当時の史料に基づき、再検証する動きがみられます。

 そこで近年の研究成果をふまえ、関ヶ原合戦時の秀秋の動向についてご紹介します。

近年の説

 まず、秀秋が裏切った時刻について。合戦前日の夜には、東軍に寝返ったことが大垣城にいる三成をはじめ、西軍諸将に伝わったことが明らかになっています。そのため、遅くとも前日には裏切っていたことになります。

 合戦の最中に裏切ったとする従来の説は見直されつつあります。あわせて前述の「問鉄砲」の逸話も創作と考えられるようになりました。

 この秀秋の裏切りによって、西軍には1つの問題が発生しました。このとき関ヶ原には大谷吉継の部隊が布陣していましたが、秀秋の裏切りによって、吉継の部隊が攻撃される可能性が生じました。そこで吉継の救援のために急遽、大垣城にいた三成等の西軍主力部隊が関ヶ原に向かったと考えられるようになりました。そして、家康率いる東軍と衝突し、関ヶ原合戦が始まりました。

 通説では午前8時頃から合戦が始まったとされていましたが、近年は午前10時頃とみられています。また、合戦内容についても従来は秀秋が裏切るまでは一進一退の攻防が続いていましたが、近年は開戦当初から秀秋は東軍として活動し、合戦は最初から東軍有利で進み、正午頃には終わったと考えられています。

なぜ秀秋は西軍を裏切ったのか

 ところで、なぜ秀秋は西軍を裏切ったのでしょうか?

 まず、西軍挙兵時に秀秋が畿内に残っていたことが挙げられます。前述のとおり、家康が会津に向けて出陣した際、秀秋は畿内に残留することになっていました。そのため、三成等が挙兵したときに秀秋の周囲は西軍の勢力に囲まれており、東軍に味方した場合は孤立無援の状況でした。また、秀秋の領国は遠く九州の筑前であるため、領国に逃げることもできない状況でした。そのため、やむを得ず西軍に味方した可能性が考えられます。

 以上に加え、秀秋の家臣団の意向も裏切りの理由の1つとして考えられています。

 秀秋の家臣は秀吉から付けられた家臣だけではなく、所領であった丹波や北九州出身の家臣が多く、秀秋の意のままに動く側近は少なかったとみられています。また、最上位の家臣とされる平岡頼勝は家康と親密であったとされています。このため秀秋は家臣団の意向もふまえて、東軍に味方することを決めた可能性も考えられます。

 関ヶ原合戦当時の秀秋は19歳でしたが、若年であることには変わりなく、意のままに動く側近も少なかったとみられることから、秀秋としては家臣団の意向を重視せざるを得なかったのではないでしょうか。

おわりに

 以上のように関ヶ原合戦の全体像は、近年大きく見直されるようになりました。このような傾向のなかで小早川秀秋の動向にも注目が集まり、秀秋の裏切りの真相についても新たな事実が明らかになりました。

 特に秀秋の裏切りは、合戦の最中ではなく、合戦前であったという事実は関ヶ原合戦の真相を大きく変容させたと思います。


【主な参考文献】
  • 白峰旬『新解釈 関ヶ原合戦の真実 脚色された天下分け目の戦い(宮帯出版社、2014年)
  • 柴裕之『徳川家康-境界の領主から天下人へ ー』(平凡社、2017年)
  • 光成準治『小早川隆景・秀秋』(ミネルヴァ書房、2019年)
  • 柴裕之編『図説豊臣秀吉』(戎光祥出版、2022年)

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  この記事を書いた人
yujirekishima さん
大学・大学院で日本史を専攻。専門は日本中世史。主に政治史・公武関係について研究。 現在は本業の傍らで歴史ライターとして活動中。

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