知的美人の象徴とされた読書 江戸時代、吉原遊女たちの読書は教養を身に付けるためだった?

 今からおよそ300年前の江戸時代中期。江戸では、経済の発展とともに町人文化が見事に花開いていました。「宝暦・天明文化」と呼ばれています。8代将軍徳川吉宗に仕えて幕臣となり、10代将軍家治の側用人、老中にまで登りつめた田沼意次は、経済政策に力を注ぎました。その恩恵を受けた江戸の人々の間で、生き生きとした文化活動が発展していったのです。

 当時、江戸の流行の最先端を担う場所の一つに「吉原遊郭」がありました。吉原の遊女達は読書もしていたようです。本記事では遊女たちの読書にフォーカスしてみたいと思います。

知的好奇心が旺盛だった遊女たち

 吉原には、「日千両」→1日に千両もの大金が落ちたという喩えがあるように、当時の吉原は、華やかな花街として特段の賑わいを見せていました。花魁や遊女達だけでなく、商売を支える従業員が暮らし、飲食店も営まれ、花街と関わり合う様々な業種の人々が行き来し、男女問わず人気の観光地でもありました。

新吉原の図(『江戸風俗浮世絵大鑑 第1輯』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
新吉原の図(『江戸風俗浮世絵大鑑 第1輯』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 江戸開府当初、市中に散在していた遊女屋が一区画にまとめられ、元和4年(1618年)に吉原遊郭として営業が開始。時代が進み、江戸中期には人々も太平の世を享受するようになり、遊興や娯楽を楽しむ機会が増えていきました。

 そのような煌びやかで華やかな吉原遊郭の中で、現代の私達と変わらず、本を読むことをとても楽しんでいたのが遊女達です。華やかな表舞台の裏側で、遊女達には苦界の日々が続いていました。しかしそんな過酷な環境においても、彼女達は知的好奇心が旺盛で学ぶ意欲に溢れていました。流行に敏感で、豊かな心をもち、芸術を愛し、美しい着物や調度品、流行りの浮世絵などの色とりどりの色彩に心を踊らせていたのです。

江戸時代の本

 まずは江戸時代の「本」について少し見てみましょう。

 江戸初期、慶長(1596〜1615)・元和(1615〜1624)期には、朝廷を中心とする貴族、上級武士、寺社の学僧などの間で、書物の相互貸借・書写本製作が盛んであり、学問や読書が極めて熱心に行われていました。

 また、『江戸時代初期出版年表』によると、近世初頭からすでに印刷本製本が発展していたことが分かります。秀吉の朝鮮出兵によってもたらされた新技術の古活字本(こかつじぼん)と、元禄期には、それを基に開発された新活字本もありました。

『吾妻鏡』古活字本 寛永版・林羅山の跋文(出典:wikipedia)
『吾妻鏡』古活字本 寛永版・林羅山の跋文(出典:wikipedia)

※ 活字、活字本、整版本

  • 活字:新聞や書籍、様々なディスプレイ等に、同じ書体で印刷・表示されているもの
  • 活字本:活字版で印刷された書物のこと
  • 整版本:整版で印刷された書物のこと

 整版本では全文を一枚の版木に彫刻します。そのためには、熟練の刻工が必要で、相当な費用と長い期間を必要としました。一度出来上がれば、何度も繰り返し印刷できるのでとても重宝しました。整版は仏教経典などの教科書的な統一性を必要とするもので多く行われました。

 活字版は「一字板」とも言われ、銅活字または木活字を一字ずつ配列して作文するものです。徳川家康も、活字版『東鑑』を51冊刊行しています。

 江戸初期の書籍や読書は、貴族・学僧・上級武士の間で、「進講」「講釈」「会読」の形で行われるものが大半でした。それは、まだまだ世の中に書物が不足していたこと、読み書きができる人達が限られていたからです。(その後、寺子屋や丁稚教育の成果で識字率は上がっていきました)

 この整版技術によって、知識・教養・娯楽・情報が広く人々に伝達していきました。本の大きさも様々になり、大型の学問書を机の上に開いて行う読書から、半紙本・中本・小型本と、娯楽や実用書へ広がり、身分の上下なく自由に楽しめるものになっていきました。

 江戸中期頃には、本屋自身が本を開発し、商業的利益をあげるようになります。それらの本の多くは『浄瑠璃本』(挿絵入りの浄瑠璃本は、『絵入浄瑠璃本』と呼ばれます)などの娯楽読み物、流行りを取り入れた実用書などでした。

 出版によって、本の売り方も様々な形態が現れてきました。本を持って売り歩く「本屋」「行商本屋」は、中世の終わり頃から、貴族のお屋敷を売り歩いていたことが当時の日記などに記録されています。京都鹿苑院の歴代僧録の日記『鹿苑日録』元和元年(1615)には以下のように記されています。

「書物をひさぐ者来る。大小十二部買ふ」
『鹿苑日録』より

 本売りは、江戸中期ごろに次々に現れるようになります。浮世絵の遊女評判記である『山茶やぶれ笠』では、延宝三年(1675)に本売り喜之介が、吉原遊郭内で本を売り歩いている姿が描かれています。

 様々な物品を貸して商売をする「貸物屋」がいる中で、本だけを貸し出す商売も増えていきました。「貸本屋」です。貸本屋は、出版本屋を兼業するようにもなります。貸本屋が取り扱う本は、読者の好みを取り入れ、常に新しいものを期待されていました。

吉原遊女の読書と教養

 江戸時代には、読書は知的美人の象徴とされました。菱川師宣『団扇絵づくし』天和四年(1684)には、女性が気ままに本を読んでいる姿が描かれています。

『団扇絵づくし』より。(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『団扇絵づくし』より。(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 また、菱川師宣『吉原風俗図巻』天和三年(1683)には、格子の内側で遊女達が思い思いに本を読みながら、客待ちをしている姿が描かれています。

 この他、鈴木春信『絵本青楼美人合』明和七年(1770)には、吉原の美人166人が描かれており、本を読む姿には次の書名があります。『源氏物語』、『風雅集』(室町時代の勅撰和歌集)、『徒然草』などなど。

『浮世絵鑑 第1巻』(菱川師宣画、出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
『浮世絵鑑 第1巻』(菱川師宣画、出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 このように浮世絵には、読書をする遊女達も多く描かれているのです。

 年に2日しか休みがなかったと言われる遊郭での生活。厳しい環境の中で、貸本屋・絵草紙売りが持ってくる本や、呉服屋が売りにくる鮮やかな着物を見ることが遊女達の楽しみでした。

 遊女達が、どのような本を読んでいたのか、残されている記録はあまりありません。浮世絵や挿絵に描かれている本を参考にするならば、『浄瑠璃本』や『湖月抄』(江戸時代に最も広く普及した『源氏物語』の注釈書)などがあげられます。読書は、遊女達にとって暇つぶしや趣味というだけでなく、目標や生き甲斐だったのでないかと思います。

 教養を身に付けるために『源氏物語』などの古典文学を読んだり、字を習って「日記」をつけたりする遊女達もいたようです。

文を書く遊女(『鈴木春信 (六大浮世絵師決定版)』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)
文を書く遊女(『鈴木春信 (六大浮世絵師決定版)』より。出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

 教養を身に付けることは、自身の出世にもつながります。客との会話や手紙のやり取りなどで文才を発揮できるようになるだけでなく、何よりも学ぶことは大きな喜びであったにちがいありません。日記の中では、日々の生活における葛藤を吐き出したり、願いを書いたりすることが、遊女達の心を支え、前を向く原動力になっていたのでしょう。

おわりに

 時代が進み、読書を通じて知識や教養を身に付けていった遊女達の存在が、その後の公娼制の廃止や女性の人権獲得に繋がっていきました。

 江戸時代を華やかに彩り、流行の最先端を行く吉原には、本を読んで豊かな心を育み、知識教養を身につけていった遊女達と、民衆の娯楽や期待に応え続け、吉原の遊女達に本を届け続けた本屋達の力強いストーリーがあったのです。


【主な参考文献】
  • 長友千代治『江戸庶民の読書と学び』(勉誠出版、2017年)
  • 橋口侯之介『江戸の古本屋』(平凡社、2018年)
  • 深光富士男『ビジュアル版江戸文化入門』(河出書房新社、2023年)
  • 安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(PHP新書、2024年)
  • 鈴木俊幸『絵草紙屋 江戸の浮世絵ショップ』(平凡社、2010年)

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
はな さん
子どもの頃から日本史が大好きです。 歴史資料集をいつまでも読んでいられます。 漫画・小説・ドラマも時代劇ファンです。 記事を書きながら、歴史の勉強をさせていただけて本当に幸せです。 どうぞよろしくお願いいたします。

コメント欄

  • この記事に関するご感想、ご意見、ウンチク等をお寄せください。