大河ドラマ「光る君へ」 藤原伊周の壮絶な最期とその遺言

 大河ドラマ「光る君へ」第38回は「まぶしき闇」。藤原伊周が精神的に追い詰められていく様子が描かれていました。

 『栄花物語』(平安時代の歴史物語)には、伊周の死が記述されていますが、それは壮絶なものです。伊周は昔は肥え太っていましたが、死が迫るにつれて、痩せ衰えていったとのこと。しかし、痩せ細っている割に、顔色はつやつやしていたので、かえって人々に恐ろしい印象を与えたようです。

 自らの死を悟った伊周は、娘2人と息子の道雅などを枕元に呼び遺言しますが、その遺言もまた恐ろしいものでした。娘たちには、宮仕えは恥であるからしてくれるな。息子には、他人に追従するな、追従するなら出家せよ。これはまだ良いとしても、自分の遺言を破ったならば「必ず恨みに思う」「この世に生かしてはおかぬ。怨霊となってとり殺してくれる」と息巻いたのです。

 伊周は、涙を流しながら、そうした言葉を繰り返したと言います。子供たちへの遺言にしては異常と言えるでしょう。さすがに、周囲の者も、伊周の言葉を聞いて悲しみを抱いたようで、藤原隆家(伊周の弟)も「なぜ、そのようなことばかり、仰せになるのですか。誰も(兄上の)御心に背くようなことは致しませぬ」と泣きながら反論したとのこと。伊周は弟の隆家に我が子・道雅のことを頼むと言って泣いたようです。口では「怨霊となってとり殺してくれる」と言いつつも、やはり内心は息子のことを想っていたのでしょう。

 『大鏡』(平安時代後期に成立した歴史物語)にも、伊周の遺言のことが記されていますが、そこにも「世間の物笑になるような見苦しい真似をしたら、死んでも必ず恨む」との言葉が載せられています。伊周のプライドがよく分かる逸話であります。

 寛弘7年(1010)1月、伊周は37歳でこの世を去ります。伊周の娘は、ライバルだった藤原道長の次男・頼宗(母は源明子)の妻(正室)となるのですが、その事を伊周はどう思ったでしょうか。


【主要参考文献一覧】
  • 朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007年)
  • 倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023年)

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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