平安時代の結婚 結婚適齢期は10代から40代!? 妻問婚と婿取りが主流だった時代とは

 大河ドラマ「光る君へ」では、多くの平安貴族やその妻や娘である女性陣が登場します。男女関係の中で「結婚」は、当時も重要視された儀礼でした。

 戦国時代や江戸時代の大奥などでは、一夫多妻制のイメージが持たれがちです。実際、平安時代も1人の貴族が複数の妻と婚姻関係を構築していました。「光る君へ」でも、主人公・まひろ(紫式部)の父・藤原為時が貧乏官人の身の上ながらも,他の女性の家に通って自宅を留守にするシーンがありました。

 この記事では平安貴族たちがどのように女性たちと婚姻関係を結び、自分たちの家を発展させるに至ったのか、平安時代の結婚について見ていきます。

嫡妻と妾

 まずは結婚において、妻の立場から見ていきましょう。

 多くの歴史ドラマでは,将軍や大名などは本妻を「正室」と呼び、正妻以外の「側室」と区別して扱っていますね。古代の律令制国家である日本(特に奈良時代から)では、本妻を「嫡妻(ちゃくさい)」と呼んで特別視していました。

 嫡妻が産んだ長男が、父親の後を継いで家督を相続。やがてこの形式は時代を超えて採用されていきます。平安時代では、藤原兼家が絶対権力者として登場しましたね。

 兼家には嫡妻に産ませた3人の男子がいました。長男・道隆、次男道兼、三男道長です。しかし兼家は、妾(しょう)である「藤原道綱の母」に道綱を産ませてもいました。道綱の生まれ順は、道隆と道兼の間になります。

 この場合、嫡妻の産んだ男子が年齢順に家督相続権を与えられます。道隆→道兼→道長の順番です。道綱は妾の産んだ男子ですから、順番は回ってきません。ただ、嫡妻と妾の区別は、差別的な要素よりもトラブル防止を目的としていたと考えられます。

 結婚については、身分以外にも時代的な違いもありました。

 平安時代の前期の方では、主に妻問婚(つまどいこん)という形式が取られていました。これは夫婦が別居しながら、夫が妻の家を訪ねるという婚姻関係です。

 一方、大河「光る君へ」の舞台である平安中期には、婿入婚(むこいりこん)が主流になりつつありました。これは夫が妻とは別居せずに、妻の家に同居するスタイルです。藤原氏が天皇家の外戚として君臨するときも,この形式が採用されてきました。

 なお、平安時代後期や末期には,現代と近い嫁入婚(よめいりこん)が採用されていきます。これまでの婿取りではなく、嫁が夫の実家に嫁ぐという形式です。

古代から続いた「妻問婚」

 妻問婚の歴史は、古代日本から一般的な形態でした。すでに古墳時代には結婚のスタイルとして定着し、飛鳥時代や奈良時代を経て平安時代前期まで広く採用されていました。

 妻問婚の特徴は、夫と妻の別居だけでなく財産形態の分離にあります。妻方と夫方の財産管理は、双方の一族に分かれていました。

 男女2人が結ばれるには、男性が「ヨバヒ(夜這い)」を行い、女性が受け入れれば結婚、という流れがあります。これは一見簡単なように見えますが、「ヨバヒ」と一口に言っても、様々な形態がありました。戸口から女性の名を呼ぶことから、和歌を送り合うなどです。

 お互いの合意によって結婚が成立した後、今度は女性の親に承諾を得て認められれば、公的な婚姻関係と扱われるようになります。結婚後に2人に子供が生まれたら、養育は母方の一族が担当することと決まっていました。夫方からは異論を差し挟むことはできません。

 また、離婚については2人の関係が終了してからとなります。夫が妻の家に通わなくなる or 妻が通ってきた夫を返す、という具合ですね。このほか、この妻問婚の緩やかな関係性により、一夫多妻だけでなく、多夫多妻となる関係もあったとされます。

 妻問婚は平安時代中期まで行われました。加えて日本の歴史にも多大な影響を与えました。大河ドラマ「光る君へ」では、藤原兼家の娘・藤原詮子が、我が子である懐仁親王と藤原氏の東三条殿に入るシーンががその一例でしょう。母方の外戚である藤原氏のもとで養育されるため、自然と藤原氏の権力が強くなっていきました。

通うのがバレる?儀礼的な側面もあった「婿取り婚」

 平安時代中期以降になると、結婚の形態は妻問婚から婿取り婚(招婿婚)へ主流が移ります。

 「光る君へ」では、藤原道長の婿入り先について話されるシーンがありました。すでに当時の主流として扱われていたことがわかりますね。いわゆる結婚までは、妻問婚とほとんど同じです。そして結婚後に夫が毎晩妻の元に三日間通います。

 三日目に家の者から会っているところを現場で見つかります。これを露顕(とこあらわし)と言いました。そこで夫となる人物に餅を食べてもらいます。ここを三日夜餅と言って、同族化する儀式としました。『江家次第』によれば、夫は銀盤の餅3枚を全部食べ切らないことを作法としていたとあります。

 「平安時代」と聞くとどうしても一夫多妻制を想像してしまいますよね。しかし必ずしもそうではなかった側面があります。平安中期からは、夫は嫡妻の家に婿入りして同居。妾(しょう)妻と妾は区別されていました。正式な妻(嫡妻)は、正式な儀式婚を経て認定されており、妾は通過していません。妻は1人しかいない、という事実は見ておく必要があります。

平安時代の婚活は和歌を送り合う?

 平安時代は、早い年齢から婚姻関係を構築していました。

 当時の男子の加冠(成人の儀式)の年齢は、数えで12歳から16歳までには行われていたようです。女子の成人の儀式である裳着(もぎ)は、数えで12歳から16歳くらいの年齢で執り行います。

 「光る君へ」でも、主人公のまひろが裳着をしていましたね。その時に藤原宣孝が「これで嫁にも行けるし、子も産める」と発言していました。つまり、男女ともに数え年で12~16歳で成人。結婚適齢期とされていたことがわかります。

 これより先の時代である奈良時代の「養老律令」では、婚姻年齢を「男子は15歳以上、女子は13歳以上」と定めていました。しかし前述の通り、平安時代においては成人を済ませれば婚姻は認められていたようです。実際に藤原彰子は数え年12歳で入内しています。成人の儀式さえ済ませれば、婚姻は可能でした。

 しかし平安時代と言っても、婚姻が10代という早婚とは限りません。実際、のちの最高権力者となる藤原道長は22歳で結婚。相手は24歳の源倫子でした。現代の感覚だと信じられないかも知れませんが、2人とも当時の婚姻年齢からすれば晩婚にあたったようです。

 ちなみに紫式部は、27歳で藤原宣孝と結婚。これも当時としては遅い結婚でした。もっとも、中には40代で結婚した例もあります。村上天皇の皇孫・嫥子(よし子)女王は、47歳で藤原道長の息子・教通と結婚。初婚を迎えています。

 結婚に関する年齢への意識やこだわりは、平安時代の方が緩やかだったのかも知れません。


【主な参考文献】
  • コトバンク「三日夜餅」
  • 高群逸枝 『日本婚姻史』(至文堂、1963年)

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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