徳川家康が愛した刀剣とそれにまつわるエピソードを紹介!

 日本史上、最長の武家政権を確立した武将「徳川家康」。戦国の世を最後に制した覇者といえます。どちらかというと老獪な政治力を駆使した人物、というイメージが強いようですが、弱肉強食の世を生き抜いた戦士としての素顔が隠されています。

 その証の一つが刀剣。家康は武将らしく、刀剣を殊のほか愛したことでも知られています。本コラムでは、そんな家康が愛した刀剣とそのエピソードをご紹介しましょう。

家康は正真正銘の“剣士”だった

 家康は若年よりいくつかの剣術流派を修行し、高い技量を有していたといわれています。

 将軍家指南役として有名な「小野派一刀流」や「柳生新陰流」も家康が見出したものであり、個人として剣の技量を磨くのは戦国武将のなかでも珍しいタイプといえるかもしれません。それというのも戦国時代の主兵装は槍であり、刀を抜いて一対一で戦うというスタイルは副次的なものと考えられていたからです。

 それにも関わらず、将たる家康が剣を磨いたのは単体での戦闘力に加え、戦がなくなった時代にこそふさわしい術であると見越していたからでしょうか。そして自身が剣士であった家康は、その魂ともいえる刀剣に深い愛着を示し、多くの名刀を所持していたのです。

本当に妖刀?「村正」の謎

 「徳川」にかかわる刀剣で必ずといっていいほど名が挙がるのが「村正」です。

 この刀工の作は家康に近しい人物の命を奪い、あるいは家康自身も傷を負うなどしたと伝えられているため、徳川家に祟る「妖刀」であるとされてきました。ところが、家康自身が村正の刀を所持していたことが分かっており、家臣の中にも村正の系譜にあたる刀剣を持つものがいたことから、必ずしも家康が忌避したわけではないものと考えられています。

村正(東京国立博物館所蔵)
村正(東京国立博物館所蔵。出所:wikipedia

 村正は伊勢桑名の刀工で、家康の出身地である三河地方の圏内といえます。よく切れる実用刀でありながら、比較的安価で量産されていたことに特徴があるとされ、当時は多くの武将が愛用したとされています。

 家康が怪我をしたり、身辺での刃傷に村正が使われたりするエピソードが多いということは、それだけポピュラーな刀であったと言い換えることも可能かもしれません。

 ちなみに、妖しい魅力をもつとも評される村正ですが、意外なことに現在国宝や重要文化財に指定されているものは一振りもありません。

灰塵から回収した「鯰尾藤四郎」

 家康が愛した刀剣は大刀だけではありません。「脇差」や「短刀」などの短いものにもこだわりがあったようです。そのなかから「鯰尾藤四郎」と呼ばれる脇差(徳川美術館での表記は“脇指”)をピックアップしてみましょう。

 刃長約38.5cm、「吉光」の銘が切られており、短刀の名手・粟田口派の藤四郎吉光の作であることがわかります。

 この不思議な名前は、切っ先の曲線がまるで鯰の尻尾のようにふっくらとしていることから呼ばれるようになったものと伝わっています。最初から脇差として打たれたのではなく、もともとは小薙刀だったものを磨り上げた「薙刀直し」というタイプにあたります。

 信長の次男である織田信雄の手から豊臣家に伝わりましたが、大坂落城とともに炎に飲み込まれてしまったのです。しかしそれを惜しんだ家康は、その他の名刀とともにこれを回収。焼き直しと研ぎ直しを経てその輝きを取り戻しました。

 一度焼けてしまった刀はもう武器としての性能を失ってしまいますが、「名物」として尾張徳川家に伝来、現在では徳川美術館が所蔵しています。

家康最後の愛刀、「ソハヤノツルキ」

 おしまいに、家康最後の愛刀ともいえる有名な刀をご紹介してまとめとしたいと思います。

 それは久能山東照宮に祀られている「妙純傳持(みょうじゅんでんじ)ソハヤノツルキウツスナリ」。単に「ソハヤノツルキ」とも、無銘ながら三池光世の作と伝わることから「三池の御刀」とも呼ばれる宝刀です。

久能山東照宮の社殿
久能山東照宮の社殿。家康の遺命で、その遺骸が久能山に葬られ、徳川秀忠によって元和3年(1617年)に造営。

 あまりにも不可思議なこの名前の由来にはさまざまな説がありますが、一つずつ読み解いていきましょう。

 まず、「妙純傳持」とは「妙純」という人物が所持していたことを伝えるもので、これは美濃国の守護代であった「斎藤妙純」のことと考えられています。

 「ソハヤノツルキ」とは征夷大将軍・坂上田村麻呂の「騒速(そはや)」という大刀を思い起こさせ、「ウツスナリ」と続くことから「剣を写したもの」といった意味となります。もっとも、田村麻呂の時代の刀剣は家康の時代とは異なる直刀の姿だったため、「号」のみをあやかったものとされています。

 まとめると、「妙純が所持し伝えた、騒速の剣を写したる刀」といった文脈になるでしょう。その真意まではわかっていませんが、家康は最晩年にこの刀をこよなく愛したとされています。

 分類は「太刀」ではありますが、外装は腰に吊り下げる太刀拵えではなく帯に差す「打刀拵え」となっているのが注目され、また刃長も二尺二寸三分(約67cm)と定寸よりも短いことが特徴です。

 『徳川実紀』にも家康がこの刀を愛し、自身なき後は切っ先を西に向けて久能山に安置するよう遺言したことが記されています。

 これはすなわち、いまだ政情が不安定だった西国へのにらみを刀の武威に託し、自らがいなくなった後も徳川幕府の平安を祈る強烈な意志を示すものといえるでしょう。いわば家康が冥土にまで携えたものとも解釈でき、これこそ永遠の愛刀と言えるのかもしれませんね。


【主な参考文献】
  • 『歴史群像シリーズ【決定版】図説 日本刀大全Ⅱ 名刀・拵・刀装具総覧』歴史群像編集部編 2007 学習研究社
  • 『別冊歴史読本 歴史図鑑シリーズ 日本名刀大図鑑』本間 順治監修・佐藤 寒山編著・加島 進協力 1996 新人物往来社
  • 「東照宮御實紀附録巻十六」『徳川実紀』

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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