※ この記事はユーザー投稿です
信玄の血は伊豆大島へ?…島流しに遭った孫が繋いだ武田家の宿命
- 2025/08/10

戦国時代に活躍した名将・武田信玄の孫にあたる人物に武田信道(たけだ のぶみち、1574~1643年)という人がいます。徳川幕府は江戸時代初期、信道を妻子ともども島流しにしました。武田信道はいったい何をしでかしたのでしょうか?
武田家は滅亡したのでは?
武田信玄を輩出した武田家は、平安時代の清和源氏にルーツを持つ武家の名門です。鎌倉時代から甲斐国(山梨県)を支配し、戦国時代に信玄の父・信虎が勢力を拡大。信玄はさらに勢力を伸ばし、戦国最強の大名とまで言われるようになります。ところが、信玄の子の勝頼は織田信長や徳川家康と抗争を繰り広げる中で徐々に衰退し、天正10年(1582)に信長によって甲斐に攻め込まれ、勝頼の一族は自害に追い込まれます。これにより、武田家宗家は滅亡しました。
信玄の二男の子として誕生
では、武田信道は誰の子なのでしょうか?信玄には、家督を継いだ勝頼や自害に追い込んだ長男・義信のほかにも男子がいました。信道の父親は、信玄の二男である信親です。信親は盲目だったとされ、出家して竜芳(りゅうほう)と名乗っていました。
信道は天正2年(1574)生まれで、勝頼が滅ぼされた時は8歳。織田軍による残党狩りから身を隠し、信長が本能寺の変(1582)で倒れ、甲斐・信濃が徳川家康の領地となったことで、表舞台に戻ることができました。やがて父・竜芳と同様に出家して顕了道快(けんりょう どうかい)を名乗ります。
大久保長安事件で島流しに
慶長18年(1613)、信道は大久保長安事件に巻き込まれます。事件のきっかけとなった大久保長安は、武田信玄に才能を見いだされて家臣となり、とくに鉱山開発で力を発揮。武田宗家滅亡後は徳川家康に仕え、佐渡金山や石見銀山の開発を通して徳川家の財政面を支えるようになりました。
多大な功績を上げて出世を果たした長安ですが、一方で私腹を肥やしていたとも言われ続けます。長安が慶長18年に死去したのを機に、大久保家は一族もろとも断罪に処されてお家断絶となりました。
実は信道は、この事件に連座しているとされたのです。
伊豆大島で生涯を閉じる
信道は妻、そして子の信正とともに元和元年(1615)に伊豆大島に配流されます。信道と大久保長安との関係は、はっきりとは分かりませんが、長安が信玄に見いだされたことを考えると、その恩に報いるために信道を庇護していたのではないかと思われます。島流しとなった信道は、島内の野増村に数人の家臣とともに暮らし、処分が解かれるのを待ちますが、寛永20年(1643)に69歳で没します。
大島にある史跡案内板によれば、野増村の人たちは配流地で亡くなった信道や家臣たちを「七人様」と尊称し、村開発の先祖として供養し続けてきたそうです。
おわりに
武田信道の子の信正は、父の没後20年目の寛文3年(1663)に幕府に許され、本土への帰還を果たします。その後、婿入りして嫡男の信興が生まれました。武田信興は、5代将軍徳川綱吉に謁見し、高家として認められ、以後は高家武田家として幕末まで信玄の血脈をつないでいったのでした。
- ※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
- ※Amazonのアソシエイトとして、戦国ヒストリーは適格販売により収入を得ています。
コメント欄