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  • 武田信玄
 2019/03/28

武田信玄の子孫は実在するのか!?武田滅亡後の一族の血脈を辿る!

天目山で勝頼自害の様子が描かれた『勝頼於天目山遂討死図』(月岡芳年画)
天目山で勝頼自害の様子が描かれた『勝頼於天目山遂討死図』(月岡芳年画)

織田信長の甲州征伐によって武田勝頼が天目山にて自害したことで、甲斐武田氏は滅亡したと日本史の教科書にはある。 しかし、調べてみると信玄の傍系はもとより、直系の子孫さえも家を存続させていることがわかる。

一体どのような経緯を辿ってその血脈を維持することができたのだろうか。
(文=pinon)

信玄直系は絶えたか

勝頼の系統は勝頼の子の代で絶えたとされている。信玄の直系で今に子孫を残している系統は次の3家である。

海野信親(うんの のぶちか)の系統

信親は信玄の次男である。

『甲陽軍鑑』によると、盲目であったため、甲斐の領国経営に携わることはなかったという。 正室として海野幸義の妻を娶り海野家を継ぎ、穴山信君の娘を側室としている。 後に出家し、竜芳(りゅうほう)と名乗ったとされる。

竜芳は織田信長の甲州征伐の際に、自害したとも、信忠に討たれたともいわれるが、いずれにしろ命を落としている。

『甲斐国志』によれば、側室との間に生まれた信道は、出家し顕了道快(けんりょう どうかい)と名乗っていたとある。 このため、難を逃れたという。

ところが、武田家遺臣である大久保長安の事件に関わったとして、伊豆大島に配流となってしまう。信道は伊豆大島で没する。

信道の子である信正が江戸幕府から赦免され、その子信興は高家旗本として武田家の再興を許され、その血統は今も続いている。

現在の当主は16代武田邦信氏である。実は武田信道の系統は、公式に武田家の正系として認められているという。

話は1915年に遡る。大正天皇が武田信玄の治水への貢献に対して従三位を贈ろうとしたところ、正統の武田家子孫を名乗る家が多数出たそうである。そこで、信玄のお膝元であった山梨県が10数年かけて調査した結果、信道の家系を正統と認定し、14代目武田信保が従三位を受け取ったのである。

邦信氏は東京在住であるが、次期当主の英信氏は自分の代で山梨に戻ると宣言し、現在は山梨県に在住し、甲府市役所に勤務しているそうである。

武田信清の系統

信清は信玄の七男であるとされることが多いが、六男だという説もある。

信玄の代に法善寺に出家していたのを、勝頼の代には還俗して甲斐源氏の一族の安田氏を継ぎ安田信清と名乗ったという。 1582年に武田氏が滅亡すると、親族の縁により越後の上杉景勝に仕える。

その後上杉家は江戸幕府により米沢藩に移封となり、同藩に高家職制度が設けられたのは幸運であった。 信清は高家衆筆頭として500石を拝領し武田姓を名乗ったのである。これを米沢武田家という。

米沢武田家は断絶することなく明治維新を迎え、現在に至っている。米沢武田家15世当主武田昌信氏は武田家旧温会顧問を務められている。

仁科盛信の系統

盛信には男子が4人いたとされる。

・長男信基

1582年、織田信長の甲州征伐が始まると、信基らは高遠城を脱出し北条氏を頼って武蔵国八王子へ落ち延びたという。

江戸時代に入ると武田家遺臣である大久保長安の計らいで、家康に仁科氏の存続を懇願し認められ、信基は旗本に任ぜられ3100石を拝領したのである。この系列は残念ながら後に断絶してしまう。

・二男信貞

油川信次(あぶらかわ のぶつぐ)が父ではないかという説もある信貞であるが、武田氏滅亡後も生き残り、天正壬午の乱後に徳川家康に仕官したという。

大坂の陣後の1625年には武蔵国など数か国に350石を拝領し旗本となる。

信貞の子孫は後に武田に改姓し、断絶することなく明治維新を迎えたのである。明治時代には兵庫県に移住し現在に至っている。

・三男晴正

子孫を名乗る一族の家に伝わる話として、上総武田家の武田豊信を頼って落ち延びたという。 『千葉県誌』によれば、豊信の嫡男氏信が現在の千葉県茂原市永吉に土着し郷士となったという記述があるのみである。

・四男信久

子孫が旗本に任じられて明治以降も存続し、一族は大正時代に大阪府に移住していることが判明している。

信玄傍系の子孫は?

河窪 信実(かわくぼ のぶざね)

信実は信玄の異母弟である。1575年長篠の合戦で信実が戦死すると、嫡男信俊が後を継いだという。

信俊は1582年武田家滅亡後に徳川家康に仕え、子孫は旗本となる。信貞の代には武田に改姓していることがわかっているが、その後の系譜は不明である。

信玄女系の子孫はどうか

信玄には娘が5人いたと言われている。この系統も女系ではあるが、信玄のDNAが受け継がれている可能性があるという点では、気になる系譜ではある。

黄梅院(おうばいいん)

信玄の長女である黄梅院は1554年に12歳で北条氏政の元に正室として嫁ぎ、氏政の嫡男氏直(うじなお)を儲ける。つまり、北条氏直には信玄の血が入っているのである。

秀吉の小田原征伐の際には、始めは父氏政同様徹底抗戦の構えを見せるも情勢の極めて不利なるを悟り、秀吉方の滝川雄利に降伏する。氏直は自分が切腹する代わりに家臣たちの助命を嘆願したという。秀吉は氏直の覚悟に感じ入ったといい、結局氏直は高野山で謹慎の身となる。

1591年には赦免となり、河内等に1万石を拝領し大名に返り咲いている。

残念ながら、氏直には男子がおらず、従弟の氏盛が養子となり跡を継いだのだった。氏盛には信玄の血が入っていないので、北条宗家は継承されたが、ここで信玄の血脈は途切れてしまう。

見性院(けんしょういん)

武田信玄の次女である見性院は穴山信君の正室となり、嫡男勝千代を儲ける。 甲州征伐の際に信君は織田・徳川連合軍に内通するが、その功により武田宗家の継承を認められたという。 穴山氏は甲斐武田一族であるからその資格は十分にあったのである。

1582年、本能寺の変が起こったとき、徳川家康・穴山信君一行は堺にいた。 信長への御礼言上のため、家康と行動を共にしていた信君であったが、脱出の途中で落ち武者狩りに遭遇し、落命したと伝わる。

一方、勝千代も1587年に早世してしまったため、ここで信玄の血脈は途絶える。

真竜院(しんりゅういん)

信玄の三女である真竜院は木曾義昌の正室となり嫡男義利(よしとし)をはじめとして数人の男子に恵まれる。 義昌は信長の甲州征伐の際に武田勝頼と離反すると、真竜院は義昌と離別して四男の義一(よしかづ)と木曾山中でひっそりと暮らしたとされる。義一には信玄の血が流れているが、その後の系譜は定かでない。

嫡男義利は豊臣政権において大名として存続し、下総の海上郡阿知戸1万石を拝領する。 その後、家康に改易されてからの足跡を示す史料は残っていないが、讃岐で死去したとも長崎平戸藩に召し抱えられたとも伝わる。 当然その子孫についても不明である。

義利には義辰(よしとき)という子がいたが、義辰は伊予松山松平家を経て尾張藩に仕えたという。 義辰にも信玄の血が流れているが、その後の系譜は定かでない。

菊姫

信玄の5女である菊姫は上杉景勝の正室となるが、実子がなかった。信玄の血はここで途絶えてしまう。

松姫

松姫は信玄の六女である。織田信忠との婚約が決まっていたが、三方原の戦いにおいて織田信長が徳川家康に援軍を送ったことが原因で、婚約は解消されてしまう。信長の甲州征伐の後は八王子に落ち延びていた松姫であったが、信忠から迎えの使者があったというから、松姫を娶る気持ちに変わりはなかったようである。

ところが松姫が信忠の元に向かう途中で本能寺の変が勃発、信忠は自害する。その後、松姫は出家したため信玄の血が受け継がれることはなかった。

勝頼女系の子孫はどうか

勝頼にも複数の娘がいたとされるが、記録が残っているのは貞姫のみである。

貞姫

信長の甲州征伐の際には、前出の松姫に伴われて武蔵国八王子に落ち延びる。 その後、江戸時代となってから家康の命により高家旗本である宮原義久の正室となる。貞姫は嫡男晴克(はるかつ)を産んでいるので、信玄の血が宮原家にも入ったことになる。

高家宮原家は江戸時代を通じて存続し、明治維新を迎える。 10代当主の義直の実子聡氏(さとうじ)が1921年(大正10年)に死去し、実子の巌夫が宮原家を継いでいる。 義久以降の家系を調べてみると6代目当主の氏義が養子であるが、4代当主義辰の娘が嫁いでいるので信玄の血統は維持されていることになる。

宮原巌夫は少なくとも昭和の代まで生存していた可能性が高い。その後の消息は不明である。

あの芸能人は信玄の子孫か?

武田広(たけだ ひろし)

武田広氏は声優やナレーターとして活躍している。『世界まる見え!テレビ特捜部』、『チューボーですよ』、『出没!アド街ック天国』などのナレーター役の人と言えば、お分かりいただけるであろうか。

武田弘氏は2007年に『出没!アド街ック天国』で甲府市が取り上げられた際に、ナレーションで自身を武田信玄の末裔と語ったとされる。その真偽のほどは系図等を調べなければはっきりしないが、武田弘氏の実家は寺で、大阪府にあるということは手掛かりの1つである。

前述したが、信玄の四男信久の子孫が大正時代に大阪府に移住したので、この系統である可能性はある。

武田アンリ

武田アンリ氏は実業家・モデルとして知られる。 雑誌『小悪魔ageha』にて武田信玄の末裔という肩書が掲載されたことが話題となった。

本人曰く「曾祖父まで武田姓だったのが、祖母の婚姻により名字が変わるも、武田信玄の直系の末裔」とのことである。

一方「武田家旧温会」は当方の会員である信玄の末裔とは無関係であるというコメントを出している。 ちなみに、このコメントはアンリ氏が警察沙汰となる騒動を起こしたため、発せられたものである。

騒動によるマイナスイメージはひとまず置いて事実関係を整理すると、アンリ氏は武田宗家・米沢武田氏・仁科盛信のいずれの系列でもないということは、はっきりしたことになる。

ところで、前述した大正天皇の従三位授与の件には続きがある。 山梨県に調査を依頼された当時の日本歴史学の重鎮渡辺世祐博士によれば、 最終決定の一歩手前で残ったのは4家だったそうなのである。

最終決定で外された2家とは、勝頼の嫡男信勝の子孫とされる東京都の市川家と、勝頼の三男勝親の子孫とされる兵庫県の武田勝信家だったそうである。アンリ氏の曽祖父は武田姓だったということだから、曽祖父の代に兵庫県周辺に居住していたのであれば可能性はあるだろう。

まとめ

織田信長が最も恐れ、徳川家康が畏敬した武将である武田信玄は名将中の名将と言ってよいであろう。 そのため、甲斐武田家は名家としての地位を確立したと言っても過言ではない。 その子孫と認定された家にとって、それは非常に誇らしいことであるに違いない。

一方、祖先から口伝及び系図は存在するが、本当に信玄の子孫であるか判別できないというケースもかなり多いことがわかった。 おそらく複数の系図を比較検討すると、符合しない点があるというのが理由の1つであろう。

信玄公のDNAが採取可能であれば即解決だとも思うが、歴史フリークの私としては、系図などのすり合わせを通じて事の真偽を判定してもらいたいと思うのである。


【主な参考文献】
  • 『武将の末裔 ― 史上初! 子孫52人の秘話と秘宝 決定版』週刊朝日ムック 2015年
  • 柴辻俊六編『武田信玄大辞典』吉川弘文館 1995年
  • 柴辻俊六・平山優編 『武田勝頼のすべて』 新人物往来社 2007年
  • 柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年





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