それからの鍋島直大… ”プリンス・ナベシマ”とも”蘭癖大名”とも呼ばれ、念願のヨーロッパ生活を満喫
- 2025/06/11

弘化3年(1846)8月、肥前国佐賀藩主・鍋島直正の長男として生まれまた鍋島直大(なべしま なおひろ)。第10代佐賀藩主ですが、慶応3年10月(1867)の大政奉還で徳川の世は終わります。
念願の洋行を果たす鍋島直大
文久元年(1861)、直大は家督を相続し、明治元年(1868)には横浜裁判所副総督に任命されます。翌年に版籍奉還が行われると、知藩事となって佐賀へ戻りました。このころから洋行したいとの思いを抱いたようで新政府の許可も得ました。しかしこの後、父親の死去、廃藩置県による佐賀藩の消滅など、事が続いて洋行は延び延びになってしまいます。明治4年(1871)になり、岩倉使節団に同行してアメリカへ渡る機会がやって来ました。念願適った洋行に直大は歌に詠んで喜びます。
「とつ国の開けしわざを敷島の大和心にそえて学ばん」
まずアメリカに渡った直大、そこで使節団一行と別れてニューヨークからイギリスに向かいます。ロンドンでは医者の家に寄宿して英語を学び、次いでブロートン博士から英文学を学ぶと順調な出足でした。ヨーロッパ各国にも足を延ばした直大はパリで岩倉一行に再会し、ウィーンではシーボルトにも会い、大いに国際感覚を磨きます。

ところがロンドンで明治7年(1874)の正月を迎えた直大にとんでもない知らせが届きます。佐賀藩士で新政府の要職に就いていた江藤新平が征韓論争に敗れて下野、征韓党を率い、「佐賀の乱」を起こしたのです。
ただちに帰国した直大、すでに乱は鎮圧されていましたが、直大は旧臣を集めて軽挙妄動を戒め、イギリスへ戻って行きました。今度はインド洋回りスエズ運河を経てのロンドン入りです。しかも今度は夫人の胤子(たねこ)を伴い、ロンドンでは一軒家を借りと本格的に生活を始めます。週に1回夫婦でダンスのレッスンを受け、舞踏会に招かれても恥をかかぬように準備も怠りません。

ヨーロッパ生活を満喫する直大
ロシアにも出向いた直大は、嘉永6年(1853)に長崎を訪れたプチャーチンの子供や、彼が乗っていた軍艦パルラダ号の艦長ポシェットらと面会します。ロシア人たちは直大の父・直正が長崎でもてなしてくれたことを持ち出して、直大を大いに歓待しました。フランスやイタリアでは名所を巡り歩き、ピサの斜塔に驚き、晩餐会や舞踏会にも進んで出席、ダンスレッスンの成果を見せます。惜しみなく金を使う直大の社交界での活躍を、パリの新聞は “プリンス・ナベシマ” と称えました。ロンドンへ戻ると、直大夫妻はアメリカ前大統領グラントらと共にビクトリア女王の舞踏会に招待されたりと、国際人として一流の人物と目されるまでになります。
明治11年(1878)6月、直大は7年近くのヨーロッパ生活を終えて帰国します。政府は彼に外務省出仕を命じ、ヨーロッパ生活の経験を生かして外国賓客の応接を任せました。勲三等旭日章を授けられ、東京地学協会や日本赤十字社の創設に関わったりしていましたが、このころから胤子が体調を崩します。そんなおり、直大はイタリア公使に任命され、是非とも胤子を伴いたいと思いますが、明治13年3月胤子は亡くなってしまいます。
公使にパートナーの夫人が居ないのはまずいと言うので、胤子が亡くなったばかりですが、直大は権大納言の廣橋胤保(ひろはしたねやす)の娘・栄子(ながこ)と婚約だけ済ませて、一人でイタリアへ旅立ちました。
わかれの大夜会
イタリアでローマの公使館に住んだ直大ですが、ここでも公使ナベシマではなく、”プリンス・ナベシマ”と呼ばれました。明治14年(1939)4月には、直大の後を追って来た栄子と結婚式を挙げます。明治15年3月、帰国命令を受けた直大は日本公使館で別れの大夜会を開きます。当時、イタリアでは室内で飾る花は造花を用いて香水を振りかけるのが一般的でしたが、直大はバラの生花で部屋中を飾り立てました。室内にはむせるようなバラの芳香が立ち込め、列席者へのプレゼントには見事な日本の伝統工芸品を用意しと、大盛況の夜会は翌朝6時まで続きます。この出来事は評判となり、ローマの各新聞が取り上げるほどでした。
帰国後の活躍、幸せな生涯
日本に戻った直大は明治15年7月に元老院議官兼式部頭に任命されて宮中に入り、ヨーロッパ仕込みの礼儀作法で欧米からの賓客のもてなしに夫妻で腕を振るいます。特にそのダンスの見事さは欧米人にも称賛されます。明治17年(1884)に侯爵に列せられた直大は、明治20年2月に郷里佐賀を訪れ、地元の盛大な歓迎を受けます。「長く洋行しておいでだったウチのお殿様のお帰りだ」ですね。直大は郷里佐賀に士族授産の厚生会社や佐賀育英会を設立し、図書館や博物館・公園なども寄贈、地元の文化・教育に尽くします。
明治23年(1890)には貴族院議員となり、同30年には宮中顧問官となります。明治25年には永田町に屋敷が完成し、同年7月に明治天皇の行幸があり相撲や柔術・剣術の試合を披露してもてなしました。
大正10年(1921)になると、直大は体調を崩すことが多くなり、3月には自宅で喀血、黄疸も出始めて昏睡状態に陥ります。一時意識を回復して「雅楽が聞きたい」と望んだ直大のため、宮内省は急いで演者を集めて雅楽の演奏を催します。蒲団を軽くたたいて調子を取るなど聞き入っていた直大ですが、4日後の6月19日に急逝しました。享年76歳でした。
おわりに
維新の世の急変に戸惑い、思うに任せぬ生涯を送った殿様たちもある中で、ヨーロッパ生活を満喫し、華やかな社交界で活躍できた鍋島直大は幸せな一生を生きたと言えるでしょう。死の直前の6月18日には従一位勲一等旭日桐花大綬章を受けています。【主な参考文献】
- 新人物往来社/編『幕末維新最後の藩主285人』(新人物往来社、2009年)
- 河合敦『殿様・お姫様は「明治」をどう生きたのか』(扶桑社、2023年)
- 八幡和郎『江戸三〇〇藩 最後の藩主』(光文社、2011年)
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