「徳川家達」徳川慶喜の跡を受けて徳川宗家を継承…それからのお殿様は?
- 2025/03/03

大政奉還(1867)・明治新政府設立(1868)・版籍奉還(1869)・廃藩置県(1871)。これからも続くと思っていた徳川の治世が終わり、社会が激しく揺れ動く日本の大混乱に直面したお殿様たち。家臣も領国も失った彼らはその後の人生をどのように送ったのでしょうか?
世捨て人のようにひっそり暮らした人、世を恨んで酒に明け暮れた人、意外な活躍を見せた人、さまざまな生き方がありました。今回は徳川宗家第16代当主・徳川家達(とくがわ いえさと)にフォーカスします。
世捨て人のようにひっそり暮らした人、世を恨んで酒に明け暮れた人、意外な活躍を見せた人、さまざまな生き方がありました。今回は徳川宗家第16代当主・徳川家達(とくがわ いえさと)にフォーカスします。
4歳の亀之助、第十六代徳川宗家当主となる
文久3年(1863)7月11日、亀之助(かめのすけ。徳川家達の幼名)は徳川御三卿の1つ、田安家に誕生しました。父の慶頼(よしより)はすでに隠居しており、兄寿千代(ひさちよ)は4歳で夭折。元治2年(1865)に亀之助は田安家の当主となります。慶応4年(1868)4月11日の江戸城無血開城を受けて、新政府は江戸総攻撃の中止と慶喜の助命を容認します。徳川家は新政府の大総督府に次の嘆願書を提出。
「慶喜の助命は有難き事なれど、徳川宗家の処遇も一刻も早く決定されたし」
徳川慶喜謹慎後の慶応4年閏4月、大総督府より徳川の家督相続を許され、亀之助は徳川家家名存続のために徳川宗家第十六代当主となるのです。
翌5月、大総督府は亀之助を駿府城主とし、駿河国70万石を与えると申し渡しました。亀之助は名を家達(いえさと)と改め、8月に駿府へ向けて旅立ちます。めまぐるしい運命の変遷ですが、亀之助は満年齢でまだ4歳の幼児。自分の身に起きた事も理解していないことでしょう。
徳川の石高はそれまでの10分の1となり、伴もわずか100人程度。歴代将軍があまたの家臣を引き連れて上洛したり、日光参拝をしたのに比べればあまりに寂しい行列でした。それでも江戸城からほとんど出たことがない幼い家達は、見るものすべてが珍しく大喜び。
家達:「あれは何?これは何?」
と、たびたび駕籠から顔を突き出して、家臣を質問攻めにします。
お国入り後の家達、新政府の嫌がらせ
8月15日、家達は駿府城へ入ります。このとき慶喜も駿府宝台院で謹慎生活を送っていました。9月になると家達の後を追うように、徳川の旗本・御家人たちも続々と静岡藩領に越してきます。彼らの人数だけでも3万2千人にのぼり、家族や使用人も合わせると膨大な人数に膨れ上がります。とても抱えきれない徳川家は新政府に願い出ますが、その答えはシビアなものでした。
徳川家:「旗本・御家人領はそのまま安堵してもらい、彼らを新政府の方で召し抱えてほしい」
新政府:「領地も俸禄も安堵せず、10月いっぱいで江戸の拝領邸も引き渡せ」
徳川家は何とか5000人余りに給金を与えて雇用しますが、それ以上は面倒を見切れず「無禄でよければ駿河への移住を認める」と申し渡します。それでも旧幕臣たちは主を慕って駿河へ移り住み、土地を耕し始めました。
明治元年(1868)、家達は一旦江戸へ戻りますが、政府はまた難題を持ちかけます。
「蝦夷地を支配している反乱軍の榎本武揚の脱走軍を征伐せよ」
幼い家達には無理な話で、家達の父・慶頼や一橋茂栄(もちはる)が「代わりに自分が出陣する」と申し入れ、ようやくこの話は沙汰止みになります。
子供ながらも知藩事の仕事をこなす
明治2年(1869)には、藩主の治めていた土地(版)と人民(籍)を天皇に返上させる政策(版籍奉還)によって、家達は静岡藩知事となり、華族に列せられます。子供ながらも2日置きに駿府城内の用談所へ出仕して仕事をこなします。もっとも自身で判断できるわけもなく、言われる通りに書類に判を押すのが精一杯でした。しかし翌年には領内巡視も行っています。
家達の暮らしは質素なもので、以前は家達1人のために12人分の食事を作り、毒見役も付き、と贅沢なものでしたが、これらはすべて廃止されます。魚料理が中心で鳥肉なども滅多に食膳にのぼりませんが、獣肉が解禁になると、牛肉の肉団子なども食べるようになりました。
天璋院篤姫の元へ
明治4年(1871)、藩が廃絶されて県となり(廃藩置県)、中央から県令が派遣されてきます。旧藩主を旧領から引き離すため知藩事たちは東京住まいを強制され、家達もわずかな伴を連れて東京へ戻ります。藩自体が消滅したために家中は離散、静岡藩でも多くの側近や女中を解雇せざるを得ませんでした。
東京に出た家達は明治5年(1875)に赤坂の人吉藩邸に落ち着きます。その屋敷の別棟には天璋院や本寿院・実成院も暮らしており、特に天璋院は熱心に家達の教育に当たりました。
天璋院は抵抗もせずに江戸を明け渡した慶喜を不甲斐なく思い、恨んでいたようです。この天璋院の影響でしょうか、家達は慶喜を嫌っていて、次のように語っていたそうです。
家達:「慶喜は徳川を潰した人、私は建てた人」
また、十五代将軍の慶喜に次いで「十六代様」と呼ばれるのも非常に嫌っていたようで、こう主張しています。
家達:「徳川家は十五代で終わった。私は天皇のお慈悲を頂き新たに家を立てたのだ」
イギリス留学
明治10年(1877)、家達は赤坂から千駄ヶ谷に引っ越し、6月13日には横浜港からイギリス留学に出発します。お供には河田煕(ひろむ)や竹村謹吾らが付きました。ロンドンに到着後、エジンバラに行き、しばらく個人教授を受けたのちにイートン・カレッジに入学します。宗家跡継ぎだの何だののしがらみから解放されたイギリス生活は快適だったようで、留学期間の延長願いまで出しています。現地女性への淡い恋も経験しました。
後年、留学時代を回想して語っています。
家達:「私は日本の内争に巻き込まれるのが嫌で、静かなロンドンで日を送りたいと思った。5年の留学期間は長いようだが、一度も日本に帰りたいとは思わなかった。リーゼント街やボンド街の店の見て歩き、ピカデリーサーカスやハイドパークの黄昏の散歩、夜の女の艶めかしいウィンク、どれも静岡や江戸では味わえないものだった」
楽しい日々はたちまち過ぎ、明治15年(1882)10月、家達は日本に帰って来ました。この留学経験が家達の後半生に与えた影響は大きかったようですね。
おわりに
19歳になっていた家達は、帰国後五摂家の筆頭近衛篤麿の妹・泰子(ひろこ)と結婚します。2年後の明治17年(1884)に華族令が制定され、最高位の公爵に叙されました。【主な参考文献】
- 新人物往来社/編『幕末維新最後の藩主285人』(新人物往来社、2009年)
- 河合敦『殿様・お姫様は「明治」をどう生きたのか』(扶桑社、2023年)
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』(中央公論新社、2006年)
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