大河ドラマ「光る君へ」藤原道長の娘・妍子が出産!しかし道長が喜ばなかった訳
- 2024/11/11
大河ドラマ「光る君へ」第43回は「輝きののちに」。
長和元年(1012)10月、藤原道長の娘(次女)で、三条天皇の中宮・藤原妍子の妊娠が判明します。年明けの正月10日、妍子は東三条第(道長の父・兼家の主邸であった)に出産に備えて退出しますが、その6日後、東三条第は焼失。その後、妍子は土御門第(道長の主邸)に移ることになります。そして、7月6日、妍子は無事に子を出産します。皇女でした。
道長の日記『御堂関白記』には、我が子・妍子の出産への感想などは記されていません。そればかりか、道長は妍子の出産を全然喜んでいないとの情報が出回っていました。露骨に不機嫌な顔をしたと言われています。その情報を受けて、日記『小右記』の記主・藤原実資は「(妍子が)女を産まれたことによるのだろうか」と想像しています。その後、実資は「これは天が為すところであって、人事(人間)に関することは、どうしようもない」との感想を漏らしています。
正論と言えるでしょう。産まれた子が女子だったからと言って、不機嫌な顔をするというのは、子(道長からしたら孫)を「政治の道具」としか考えていなかったと言うことでしょうか。彰子(道長の娘)が皇子を産んだ時などは、その若宮の顔を見て抱っこしたいがため、乳母の懐をまさぐったとまで言われている道長(『紫式部日記』より)。その悦び様から見たら、対照的と言えるでしょう。
ちなみに、妍子が産んだ女子は、禎子と名付けられます。禎子内親王は、後に後朱雀天皇(一条天皇と中宮・彰子の子。同母兄に後一条天皇)の中宮となります。そして、尊仁親王(後の後三条天皇)を産むことになるのです。
後三条天皇は、教科書的に言えば、摂関家を抑えて、天皇親政を行い、荘園整理令を発布、政治の刷新に努めたことで知られています。後三条天皇の即位により「摂関政治は決定的な打撃を蒙ることになる」(倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023年)との評価もあります。
道長としては自身の曾孫の即位がそのような事態をもたらすことになるとは予想もしなかったのではないでしょうか。
【主要参考文献】
- 朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007年)
- 倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023年)
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