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戦国武将・小早川秀秋は「ボンボンでボンクラ」だった?
- 2025/12/26
戦国時代の武将のなかには、失敗を犯したり、戦いで敗れたりしたばかりに酷評される人物が少なくありません。中でも小早川秀秋は「ボンボン育ち」「ボンクラ大名」と悪口を叩かれることが多々あります。なぜ、小早川秀秋はそんな風に言われるのでしょう?
一時は秀吉の後継者候補にも
小早川秀秋は、天正10年(1582)に豊臣秀吉の妻・ねね(北政所)の兄である木下家定の子に生まれました。自身に男子のいない秀吉にとって、身内の男子は貴重な存在。秀秋も3歳の時に秀吉の養子となり、ねねに育てられました。秀吉が関白として天下統一に邁進する中で、秀秋は後継者候補の一人となります。それは7歳にして丹波亀山10万石を与えられたことからも分かります。秀吉の後継者候補とはいえ、何の苦労もなく10万石の大名となった秀秋少年。まさに「ボンボン育ち」の典型と言えるわけで、後年秀秋の健康を害した酒の味を覚えたのもこの頃からだったようです。
小早川家へ養子入りした理由は?
秀吉の後継者として豊臣秀次が関白になり、秀秋はその次の関白を目指せる位置にいたのですが、文禄2年(1593)に秀吉に実子・秀頼が誕生すると、たちまち暗雲が漂うようになります。後継者問題が勃発するのを心配した秀吉の軍師・黒田官兵衛は、西国一の大名である毛利家に「秀秋を養子に取らないか」と持ち掛けたのです。
当主の毛利輝元に後継者がいなかったため、本来なら渡りに船のはずですが、毛利家では「家督にまで豊臣家に介入されてはたまらない」と難色を示します。そこで、毛利一族の小早川隆景が「身代わり」となって、秀秋を養子に受け入れました。
のちに小早川家は秀秋の代でお家断絶となってしまったため、後世「ボンクラの秀秋が毛利家当主になるのを隆景が阻止した」などと言われることになります。
どちらの味方につくべきか迷う
秀吉の死去後、天下人を狙う徳川家康と豊臣家を守ろうとする石田三成との間で、対立が深まります。やがて、天下分け目の関ケ原の合戦へと向かっていくわけですが、この時に多くの大名がどちらに味方するかの選択を迫られます。三成は、秀秋が元々豊臣家の出身であることを踏まえ、自分に味方するものだと信じていました。一説には関白の座を用意して、秀秋を誘ったとも言われています。
これに対し家康は、西軍に属している秀秋に対し、上方2か国を与えるとして味方に付くよう画策します。また、育ての母である北政所も「家康に味方をするのが良い」と秀秋に諭したとされています。
慶長5年(1600)9月15日、関ケ原の戦いが勃発します。戦いが始まっても、秀秋はどちらに味方しようか迷ってしまうのです。
若くして死んだのは呪われたせい?
天下分け目の決戦においてキャスティングボートを握った、と言えば聞こえがいいですが、言い換えれば「最終局面まで腹を決められなかった大将」だったわけです。おまけに、東軍に寝返った理由も「家康側から鉄砲を撃ち込まれて恐れをなした」とまで言われる始末。真相はさておき、歴史の中で秀秋はますます「ボンクラ大名」に仕立て上げられてしまいます。
秀秋の裏切りもあって家康は大勝利を収め、約束通り秀秋は備前岡山藩主に加増・転封されます。しかし、2年後の慶長7年(1602)に21歳の若さでこの世を去ってしまい、小早川家は断絶してしまったのです。
亡くなったのは酒の害が原因というのが通説ですが、「関ケ原の合戦の裏切りで攻め滅ぼされた大谷吉継の怨霊によって呪い殺された」という逸話が残され、裏切り者が哀れな末路をたどったというレッテルまで張られることになってしまいました。
おわりに
小早川秀秋の生涯をたどってみると、「ボンボン育ち」だったことは確かですが、果たして本当に「ボンクラ大名」だったのかどうかは、はっきりとは分かりませんでした。岡山藩でのわずか2年の治世で優れた治績を挙げていたともされており、若死にしなければひょっとすると名君として後世語り継がれたかもしれませんね。
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この記事を書いた人
フリーランスでライターをやっています。歴女ではなく、レキダン(歴男)オヤジです!
戦国と幕末・維新が好きですが、古代、源平、南北朝、江戸、近代と、どの時代でも興味津々。
愛好者目線で、時には大胆な思い入れも交えながら、歴史コラムを書いていきたいと思います。






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