「大崎合戦(1588年)」政宗、”勝算あり” と計算したはずが、結果は大敗!

ろひもと理穂
 2015/08/10

伊達氏の当主として政宗が近隣の戦国大名と激戦を重ねたのが、天正16年(1588年)のことです。この年始めの「大崎合戦」によって政宗は大きく出鼻をくじかれることになります。

政宗としては勝算ありと計算していたにもかかわらず、なぜ伊達勢は大敗を喫してしまったのでしょうか?今回は大崎合戦の経緯についてお伝えしてきます。

大崎氏と伊達氏の関係

奥州探題職を継承する名族

大崎氏といえば、文和3年(1354年)に奥州探題として下向した斯波家兼を祖とする名族です。奥州探題ですから奥州の諸大名を統率する立場でした。しかし下克上の世の中である戦国時代にどんどんと衰退していきます。逆に奥州にあって勢力を拡大していく伊達氏に押されていくのです。

享禄2年(1529年)に当主である大崎義兼が死去、その後を継いだ嫡男の大崎高兼も1年のうちに死去したことから、弟の大崎義直が家督を継ぎます。しかし、天文3年(1534年)に家臣の新田頼遠が叛旗を翻したことで、義直は伊達稙宗の居城である西山城に逃げ込んでいます。大崎氏は伊達氏の力添えがなければ立ちゆかないほどまで権威を喪失していたのです。このときは稙宗が出陣し、この乱を鎮めました。

稙宗の子が大崎氏に入嗣する

このときまだ子がいなかった義直は、稙宗の二男である伊達義宣に高兼の娘を娶らせ、大崎氏の家督を継がせました。しかし、伊達氏も盤石ではなく、天文11年(1541年)には稙宗と当主となった子の伊達晴宗が対立し、天文の乱が起こります。

天文の乱では義宣は父である稙宗に加勢し、義直は晴宗に味方して大崎氏もまた二つに分かれて争うことになりました。結果として義宣は義直に殺され、その後、大崎氏の家督は義直の子である大崎義隆が継いでいます。そしてこの義隆が大崎合戦の火種となるのです。

大崎氏にとって伊達氏は最も頼れる存在であり、また最も脅威を感じる存在でもありました。ちなみに稙宗が陸奥守護職に補任された時点で大崎氏の奥州探題職の権威は失われていたと考えられます。また晴宗が奥州探題職を補任されてからは家格としても伊達氏が上となるのです。ですから政宗が当主になった時期には、大崎氏は伊達氏に従属している一大名に過ぎないという感覚だったのではないでしょうか。

大崎合戦

大崎合戦の発端

義宣を殺害したことで、大崎氏が完全に伊達氏に吸収されることを防ぐことはできましたが、力はもはや伊達氏に及ぶものではありません。そんな中、天正14年(1586年)、義隆の小姓が争いを起こし、それが義隆と大崎氏執事の氏家吉継の争いへと発展していきます。

吉継は玉造郡岩手沢城主で、大崎氏家臣の中で最も力を持っていました。このとき、吉継は伊達氏を頼り、それに対抗して義隆は最上氏を頼っています。最上氏の祖は斯波家兼の二男であり、最上氏と大崎氏は同門一族でもあったのです。

政宗と対立していた最上義光にとっては、力を合わせて伊達氏と戦うよい口実になったことでしょう。政宗としてはそんな最上氏を警戒しつつ、大崎氏を滅ぼす準備を進めていきます。そして天正16年(1588年)正月、いよいよ大崎攻めを開始したのです。伊達勢の兵力は五千から一万ほどだったと考えられます。

大崎合戦マップ。色塗部分は陸奥国

陣代は宿老の浜田景隆

大崎攻めの準備も整い、調略も思うように進んでいた政宗にとって、大崎氏を倒すことはたやすいと考えていたはずです。強敵はその隙を突いてくる最上氏や蘆名氏、そして佐竹氏でした。そのため政宗自身はそのときに臨機応変に対応できるように備え、大崎攻めは陣代に浜田景隆を指名しています。浜田氏は『塵芥集』にも14代当主の浜田宗景が、稙宗の宿老として記載されているように、伊達氏に長く仕えている重臣の一族です。

また、宮城郡高森城主の留守政景、名取郡岩沼城主の泉田重光の両将も従っています。政景は晴宗の三男であり、入嗣し留守氏の家督を継いでいました。政宗を支えた一門衆です。重光は政宗に重用され、兄が戦死したため泉田氏の家督を継いだばかりでした。

実は政景と重光は以前から八幡氏の家督を巡って対立しており、この人事が大崎攻めを失敗に導く要因のひとつとされています。軍議の場でもやはりふたりは口論となり、伊達氏の軍勢は統制を欠いてしまっていたのです。政宗としてもまさか戦場で揉めることになるとは想像していなかったのかもしれません。

黒川晴氏の動向が勝敗を決める

2月2日、重光が中新田城を攻めましたが、大雪のため撤退。ここで伊達氏に味方するために桑折城に入っていたはずの黒川晴氏が大崎氏に加勢したため、大崎勢に追撃され、さらに後方から黒川勢に挟撃を受けます。大敗する典型的なパターンです。

伊達勢は新沼城へ逃げ込み、大崎勢と黒川勢に包囲されてしまいました。包囲を解くために出陣したい政宗としても、動くに動けない状態でした。最上義光が軍勢を率いて大崎氏に加勢するため伊達氏の領土に侵攻してきたからです。

黒川氏は伊達氏と大崎氏のどちらにも縁戚関係があり、微妙な立場でした。政宗を裏切ったとしても、晴氏の娘は政景の正室であり、政景は娘婿です。その政景を殺すことは得策ではないと考え、晴氏はここで和議を提案します。

政宗としてもこれ以上戦いを引き延ばすことは避けたかったでしょうから、この和議の提案を受け入れます。伊達勢は城の包囲を解いてもらう代わりに、重光を人質として差し出したのです。こうして勝算ありと踏んでいた大崎攻めは予想に反して大敗という結果に終わってしまいました。

大崎攻めによって伊達氏と最上氏は戦闘状態に突入するのですが、ここは政宗の母親である保春院(義姫)が和睦を仲介し、9月には両者の和解が成立しています。大崎氏家中の内輪もめを解決するための両者の出陣でしたから、そこが解決すれば伊達氏と最上氏が戦う大義名分もなくなります。重光はこの和睦によって人質の身から解放されました。

まとめ

おそらく政宗自身が出陣していれば、軍議で揉めることはなく、晴氏が裏切って背後を突くこともできなかったはずですから、大崎攻めは成功していたことでしょう。早い段階で大崎氏を滅亡させ、政宗は領土を拡大させることができたわけです。

しかし、政宗が出陣していれば蘆名氏や佐竹氏などの周辺大名がこぞって本格的に伊達氏の領土を侵し、たいへんな危機的状況に陥っていたという可能性もあります。大崎攻めに力を注ぎきれなかったことが悔しいところではないでしょうか。

大崎攻めについては、人事面、外交面ともに政宗からするとやや手落ちがあったようにも思えます。勝てるという先入観がありすぎたのかもしれません。

その悔しさを晴らし、大崎攻めを再び検討するには、まず蘆名氏を滅ぼす必要がありました。大崎氏との和睦後も政宗は大崎陣営への調略を進めており、大崎氏を滅ぼすつもりだったことは明らかです。秀吉が北条氏の小田原攻めを終わらせることができなかったら、政宗は大崎五郡(志田・玉造・賀美・遠田・桑原)を手にしていたはずです。

ただ、実際に大崎氏を滅ぼしたのは、奥州仕置で大崎氏を取り潰しにした秀吉でした。そして秀吉が天下を統一したため、政宗の領土拡大の野心もここで断たれるのです。


【主な参考文献】
  • 遠藤ゆりこ(編)『伊達氏と戦国争乱』(吉川弘文館、2015年)
  • 小和田哲男『史伝 伊達政宗』(学研プラス、2000年)
  • 小林清治『人物叢書 伊達政宗』(吉川弘文館、1985年)
  • 高橋富雄『伊達政宗のすべて』(新人物往来社、1984年)

  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。
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